100年前に書かれたみすず細工
民具研究をしている埼玉県の服部武さんから竹行李のことが書かれている貴重な資料を昨年の5月にいただきました。100年前の明治45年(1912年)3月に出版された 農商務省山林局編纂 大日本山林会発行 『木材の工芸的利用』 です。服部さんが現在使われている漢字に書き直してくれてあったのですが、明治時代の文章をざっと読んだだけでは意味が読み取れませんでした。一度自力で現代語に訳してから、松本市文書館の館長小松芳郎さんに見直していただきました。
この本には、主に信州の竹鞄・竹行李と駿州の竹行李のことが書かれていました。
この記事では、みすず細工と松本について書かれていた部分の一部を抜粋して掲載いたします。
〔 〕書きは、『木材の工芸的利用』の本文中にはなく、私の補足です。
ご協力いただいた方々に、深く感謝いたします。
「信州の竹鞄及び竹行李」
1、総説
製作及び集散状況
竹行李が最も古く作られた場所は、宮城県気仙郡地方である。ここでは籠と言い、品質は最も良いが生産額が少なく近隣地方の需要を満たす程度である。東京には毎年12月頃にわずかに入荷する程度である。次いで信州松本地方では盛大に製作されてきて、ついには我が国の竹行李製作の本場となって、みすず細工の名は遠近に宣伝されるようになった。みすず細工の生産額はもちろんのこと、その技術においても他の地方の及ぶ所ではない。信州のスズタケの生育地では数年前に結実して枯死してしまったので、今では甲駿地方[山梨、静岡]から原料を仕入れて製作を継続してきている。製品としても最も優良であり、小細工物に関しては唯一の製作地である。明治38年[1905年]度には最も多額になり、輸出額も多く、年間で50万円に達した。しかし翌年から次第に不況になり40年[1907年]度には30万円に下がった。その後20~30万円の間を上下するようになった。近年では静岡県御殿場付近で竹行李製作業が始まった。低級なものではあるが、製作個数は松本に引けをとらない。2~3年前に御殿場のメダケを使って仙台や房総地方で下等品を製作している。その他に竹行李の製産地として茨城県があるが、製作数はわずかである。竹行李の全産額の6割は輸出、4割は国内の需要となっている。
用途
竹行李の用途は柳行李と同じで形態も類似しているものが多い
種類
一 衣装箱
イ 小袖 3個または5個を組子として、最大のものを長さ2尺2寸[66.66cm]×幅1尺5寸[45.45cm]×深さ9寸[27.27㎝]にして、だんだんと長さと幅を1寸[3.03㎝]、深さ約2分5厘[0.75cm]小さくする。3個1組入を小袖6枚掛、4個1組を小袖8枚掛という。以下同じ。
ロ 大角 小袖より小型で通常は3枚掛け
ハ 二尺五寸(長さ) [75.75㎝]
ニ 二尺三寸(長さ) [39.39㎝]
二 弁当行李 大きさは様々
三 文庫 大きさは様々
四 新聞配達籠 大きさは様々
五 ヅダ行李 [いろいろ入れる行李だと思われる]
六 帳面入り(長行李)大きさは様々
信州松本では、平鞄、丸鞄、食器入など精巧な細工をする。
各地への出荷の状況
長野県松本の製作品で、東京、大阪、名古屋、京都に出荷されたものは、国内向けの品物。横浜や神戸に出荷されたものは輸出品。特に鞄類は森村組が独占的に販売の契約をしていた。そのため鞄類は松本市の商店がわずかに自宅で販売する程度で、国内品としては流通しなかった。
東京市[東京都]おける営業者について
卸売業は6、7軒であった。その中で最も信用があり、且つ実力もある問屋は3軒であった。
東京市の入荷高
輸出向けともに1年間5~6万円という。
海外輸出
明治43年の輸出数量は784,122個で、金額は305,681円。現在市場に出回るものは東海道筋の駿河の駿東、富士の両郡で作られたものが70~80%を占め、信州のものはわずかに20~30%を占めるにすぎなかった。これは原料及び運賃の関係で到底信州製は割に合わなくなったためである。(明治43年[1910年]外国貿易概覧)
2、材料
種類
スズタケ メダケ モウソウチク又はマダケ
スズタケやメダケで行李の外円を形作り、モウソウチク又はマダケを縁竹に使用する。信州松本では、みすず竹[正式名称・種類はスズタケと同一だと思われるが雑種の可能性あり]やスズタケを使用し、縁入れ竹には全てマダケを使用する。
産地
スズタケは静岡県や山梨県の富士山麓、山梨県の天目山周辺、長野県の木曽の御嶽山の周辺や伊那郡、宮城県仙台、福島県、岩手県南部方面に産する。仙台南部地方産がもっとも質が良い。信州産も良い。前者は産出額が非常に少ない。信州では数年前に結実してそれ以来多くが枯死した。その後のスズタケは伸びが悪く、3尺[90.9㎝]くらいにしかならない。また本数も非常に減少し、今日ではほとんど絶滅したと言って良い。現在最も多量に産出している地域は、富士山麓付近である。メダケは千葉県、茨城県、仙台、福島県で採取されている。信州松本では、みすず竹とスズタケとを区別している。東海道辺りで生育しているものは真のみすず竹ではないと言われている。[笹竹類に詳しい方の話では、スズタケは交雑しやすく雑種がたくさんあるとのこと。みすず竹はスズタケの雑種かもしれない。]
特質
行李の材料としては、光沢があり白色で且つ長くて弾力性があり折れにくいものが良い。御嶽山の周辺にあるみすず竹は全国でも比べるものがないほどの良品という。長さは1丈[3.03m]に達し、平均して6、7尺[1.81m~2.12m]ある。樹木の生い茂っている中にある竹が良い。日当たりが良い所の竹は堅くて弾力がない。メダケは長さではスズタケよりも長いが節のところで折れやすく光沢も少ない。したがって細かい細工物には適さないため下等な衣服入れ又は荷造り用に作られるのみ。スズタケは長さに制限があるため柳行李のような大きなものを作ることはできない。しかしスズタケは、暖地のものは節間の伸びが良いため籜[たく:竹の皮、タケノコの皮 以下単に「皮」と表記します]で覆われない部分が多い。その表面は黒ずんでしまうため良いものではない。稈が皮で全て覆われているものが良いものである。もちろん稀に皮で覆われていても黒ずんでいる部分がある竹もある。その原因は不明である。富士山麓においては、南口は乾燥後表面が黒くなりやすく、東口のものが最も良い。北口は色は白いが光沢に欠け折れやすい。箱根山のものは石山[岩石の多い山]の加減によるのか根部が屈曲している欠点がある。信州松本市鍛冶町の山田和助氏が言うには、みすず竹は太いもので直径2分(約0.66cm)に過ぎない。細微な小物にはこれを六つに割って使用する。みすず竹には弾力があり、粘り気があるが、スズタケはそうではない。みすず竹には皮の隙間があるが(この点は前の説明と異なる)、スズタケの皮は幹の全部を覆う。みすず竹は梢殺[うらごけ:根元から梢に向かって細くなる]になるが、スズタケは梢殺にならない。みすず竹は乾けば白くなるが、スズタケは生だと光沢が良いが乾くと灰色になる。またスズタケは節が高くおおむね太い。みすず竹もスズタケも虫被害に遭うことはない。
材質の価格
みすず竹は1束3貫目[11.25kg]から16貫目[60kg]まであり、一定していない。信州松本に到着した時点での値段は1貫目[3.75kg]あたり11銭。割って身[肉]を取ると3分の1の量になるという。
3、材料の処理
伐採時期
スズタケの一年子を8月から翌年の3月までに伐採する。時期が早いものは縁巻の材料にする。それは質が軟らかく色が白く、最も適当だからである。しかし早刈り[夏から秋にかけて]のものは、伐採後10日から15日間経過したものは乾いてしまい材料として適当ではなくなるが、11月以降に伐採したものは3ヶ月間くらい経過しても割裂細工に適している。そのため材料を遠方に輸送するものは、11月以降伐採したものにするべきである。また、松本市山田和助氏の説によれば、みすず竹やスズタケは、旧歴10月以降に伐採すると竹質が硬くなり編組の具合が良くない。元来みすず竹は毎年4月5月頃に発生するもので、その年の旧暦9月に伐採したものは、特に蘇鉄網代編みや縁巻竹に使用する。確かにその靱性[粘り強さ]を大いに利用したものである。しかし、9月以前に刈ったものは、柔かすぎて切断しやすい。スズタケとは言っても、旧暦10月以前に伐採したものはみすず竹同様の使用に耐えられる。一般の地編竹[ぢあみだけ 本体を編む竹]は、翌年の4月頃に梢部に枝が生じる頃まで伐採できる。ザル・カゴ類を製造するには、2年生以上のものを使用する。その硬質を利用する。
竹割
スズタケは、長さ6尺上[181.8センチ以上]のものがあるが、実際使用される長さは、平均4尺5寸[136.35センチ]位であるという。これらは生材の時に竹割器械で竹の太さや用途によって3~6裂にする。普通は3~4裂にする。次に肉を剥ぐと同時に皮も除き、すぐに細工に使用するか日陰干しか又は日光に当てて乾かす。(岩手県・宮城県の監獄内等では蒸気乾燥する。)日光乾燥するものは11月よりも前に伐採したものに行う。編む作業に入る前に水で湿らせる。仕上がり色・光沢は乾燥させないですぐに編んだものには及ばない。製作はすべて家内手工である。縁竹にはマダケが適当である。モウソウチクは、虫がつきやすく材質が折れやすい。ウラゴケは、価格が安くてもあまり利用されないという。竹を割るには、松本市東町吉澤直松氏の専売特許品篶竹割器を使用し、3本割りから6本割にする。
割竹の幅を決めるには、鉄製の刃物を2挺並べ台木に固定して前面に竹片を釘で取り付け刃物の方向に割竹を通すと一定の幅になる。ただし並みのものは幅を揃えることはなく、割って削ったままである。また竹の肉を取るには、銑[せん]を台上に据え木片をあてて押さえ鎹留[かすがいどめ]したものを使用する。
漂白
竹を漂白するには竹を割って天候が良い日には、5~6日間日光で乾燥させる。その後苛性ソーダ水に溶いたもので良く洗う。完全に乾かない状態で、少し水分がある時に繭乾燥で使用するように「ホイロ」[焙炉]の棚へ竹を並べ硫黄で薫蒸して乾燥する。
編組
行李の編み方には枡網代、立網代、蘇鉄網代がある。共に片面編と両面編がある。両面編は全て編んだ地を併せものにして、多くは鞄類に用いられる。竹行李及び鞄類はいずれも大小数個を入れ子になるように作り、輸送時の運賃を節約する。
艶出し
竹を割る前に柔かい藁で磨き、それから編み上げの後陶器の破片でその地を磨くものとする。普通のものは竹の身で摩擦する程度である。
工程
1人1日小袖2個位で、製品価格の6割は原料代である。小袖4枚掛けに必要な材料の量はざっと5貫目[18.68kg]である。
製品価格[通貨単位不明 おそらく円]
小袖(尺九もの) 0.45 弁当行李 0.13
大角(尺七もの) 0.35 文庫 0.25
二尺五寸 0.80 ヅダ行李 0.10
「駿州の竹行李」の項目に書かれているみすず細工や松本のこと
販路
静岡産竹行李は輸出が9割を占め、その8割は横浜で、他の2割は神戸で扱われている。横浜向けは大々が5割を占め、その他は小袖、大角、平行李等である。普通物はイギリス行きが8割を占め、オーストラリアにも行く。平行李はドイツに多く、アメリカがこれに次ぐ。信州の磨き行李はアメリカに多く輸出されているという。
沿革
14~15年前に信州の人が初めてこの製作を伝えて以来、裾野[地区名]一帯のスズタケの利用が大きく起こり、特に7~8年来一層盛んになった。これが伐採製作共に農家の副業として農閑期に行われ、専業者が少ないが一昨年は好況であったため却って農繁時期でも尚盛んに製作したという。御殿場の製作技術は遠く松本に及ばず、製作が単純な輸出向けを特色とする。当地竹行李の沿革について某新聞紙の記載したものは下の通りである。
この有利な事業を同地方人に伝えたのは、明治24~25年[1891~1892年]頃信州より流れ来た素寒貧[すかんぴん]の若夫婦である。名前を林梅吉という。梅吉は林家に養子となり、妻と共に御殿場附近二枚橋に住み、二人して裾野よりスズタケを刈り取って来て内地日用品を小刀で造っていたが、その売りさばく様子が有望なだけでなく、追々貿易品として横浜界隈で評判となった。付近の農民も黙ってはいられず、競って梅吉についてその編み方を学び、竹行李は直ちに破竹の勢いで作られるようになった。梅吉は後に仲買業に転じて利益を得ようとしたが、たちまち失敗して破滅に陥った。10年前どこかに行くへをくらました。御殿場附近では今でも梅吉の噂が絶えないが、その原籍及現住所を知るものはほとんどいない。ちなみに信州ではこの細工140~150年前から盛んに流行していたというが、今は原料が欠乏し、段々この地方に移転して来る人がいるという。
特質
スズタケは太い部分でもその直径は2分[0.66cm]に過ぎない。これを数本に割り、細工に使用する。材質は強く、しなり易く、節のところで折れることは少ない。又虫害に遭う事は少なく、編作に最も適当である。(ただ長さに制限があり、柳行李のような大きなものを造ることはできない)メダケは長さと太さにおいてスズタケに優るが、皮面の光沢は乏しく、かつ節の部分で折れ易いため細く割って使用するのには適さない。低級の衣服入又は荷造り用に使われるに過ぎない。
スズタケは、皮面の色沢と伸長の良否に重きを置いている。一年生のものは皮をつけていて枝は無い。信州では、皮を判断の目安として、幹の全部を被っているものをスズタケ、そうでないものをみすず竹と区別し、みすず竹を上等としている。前述のものの区別は、変種なるか又は立地の相違であるのか明らかではない。
材料価格
御殿場において500本束1束の相場
長さ 価格 目方
5尺上[約150cm以上] 32銭 4貫目[15kg]
4尺上[約120㎝以上] 22銭~28銭 3貫500目[13.125kg]
4尺下[約120cm以下] 11銭~12銭 3貫目[11.25kg]
相場の変動は、主として降雪の早遅に関連していて早い時は伐採量が少なくなる。1年中で最も需要の多い冬期に原料が欠乏すると高価になる。縁巻の材料は、割干しにすると資材の2分の1の重さに減る。7~8月頃に割干しにする。3.75kgにつき20銭。年末には23~24銭となり、材料不足になると35銭になることがある。信州向は、3尺5寸上[106.05cm以上]で品質の優等なるものであり、全て貫売買にして、明治41年[1908年]には御殿場渡し1貫目[3.75kg]につき7~8銭であったが、42[1909年]年には6銭5厘すなわち六掛半になった。
材料の供給
スズタケは温帯(ぶな帯)に繁茂し本国では広くこれが自生し、南は九州四国から北は北海道に及ぶ。とりわけ信州御嶽及び駿州富士の山麓は最も多く自生し、質は良い。しかし御嶽は数年前に結実枯死していまだに回復していない。松本の行李の原料は遠く甲駿地方から仕入れている。富士北口方面は中央東線大月駅より、南口方面は御殿場鈴川より汽車にて松本に原料を送っている。毎年御殿場より荷車15~20車、鈴川より40車。7トン荷車の1台の積載量1800~1900貫[6750~7125kg]、1000本束400~500束に相当する。1車の運賃手数料は、松本まで30円であるという。御殿場附近は主として富士山麓より持ち出したものである。その他には、小山[神奈川県足柄下郡]、山北[神奈川県足柄上郡]、松田方面[神奈川県足柄下郡]及び静岡方面より1年間に荷車20車位の入荷がある。結局御殿場は輸出した材料をまた仕入れている。行李材は一年子を抜き切り、古竹を竹林に残して収穫の保続を計っているとは言っても、伐採の回数を重ねる毎に次第に後から生えてきたスズタケの伸長が悪くなり品質が下がった。結局根絶になった部落有林は、すでに地元民の自由に委ねたためにたちまち切り尽くしてしまった。今日では御料林よりスズタケの供給を求め願っているので、山元価格(取引価格)については、従来は無償であったが、現在では1束に5銭くらい支払わなければならなくなった。材料の欠乏と共に価格の高騰を促した。当業者は供給について大いに苦心している。
編組
竹割り肉削りの間に皮は全く除かれ、直に編作をする。信州松本では苛性ソーダ液硫黄燻し等の漂白法を用いるが、御殿場では漂白をしない。 ~中略~ 松本では竹を割る前に軟らかい藁で磨き、編み上げた後陶器のかけら又は竹の身で磨き艶出しする。
米小売価格の変遷(東京・平均価格) 単位:10kg換算 銘柄:白米中級品
展望社「物価の文化史事典」より
1905年 明治38年 1円17銭7厘
1907年 明治40年 1円48銭9厘
1909年 明治42年 1円17銭3厘
1911年 明治44年 1円45銭2厘
最初の写真に含まれていると思われるみすず細工
平行李
松本市立博物館蔵
ボストンバッグ
個人蔵
手さげ弁当箱
松本市立博物館蔵
旅行鞄
個人蔵
なかなか過去の詳しい状況がわからなかったのですが、100年以上前からみすず細工が小細工物の製作地として高く評価されていたことに驚きました。今まで知っていた製作の様子からは、聞いたことがなかったことがいくつもありました。ここまできっちり調べられているのは素晴らしいことだと思います。
松本市立博物館では、小細工物も展示されているので是非ご覧下さい。
林梅吉氏を通じて御殿場へと伝わった竹行李を調べていたところ、興味深いこともいくつかあったのでまたの機会にお知らせいたします。