松本市図書館中山文庫のバスと折井英治さん
松本市中山地区にある図書館「中山文庫」にはレトロなバスがあります。
お願いしてバスの中を見学させていただきました。
スイッチの表示文字に時代を感じますね。舞台も出るし、デッキもありました。
このバスの傍らに説明板があります。
『松本市中山文庫の敷地内にある大型バスは、日本経済新聞社が自社の宣伝カーとして製作したバスで、昭和38年中山文庫の活動に協力して折井英治先生に贈ったものです。折井先生は、バスを子供たちの遊びの場、学びの場として開放してきましたが、平成12年7月、松本市中山文庫建設に伴い、蔵書とともに市に寄贈されました。
製作:日野ヂーゼル工業(株)(昭和33年10月27日製作)』
昭和30年代には日本経済新聞社は、新聞普及の為にこのバスを作って、音楽会、講演会、映画会、料理教室等々、しながら宣伝して各地を回りました。
現在は中山文庫のシンボルとなっていて、毎年8月初めにバスが開放され、バスの中で本を読むことができる「子ども広場」があります。折井英治さんのお宅からたくさんのマンガを借りてくるそうです。
今年(2014年)の夏休みこどもひろばは、8月5日(火)~8月9日(土)午前10時から午後5時までです。
元々の「中山文庫」は、1966年に折井英治さんが松本市中山に開設した私設の図書館でした。中山に図書館を造るきっかけとなったのは、出版社から科学者が解説することわざの本の執筆を依頼され、沢山の資料を広げられる場所を探していた時に、中学時代の友人池田三四郎さんに相談すると、自分もよく外国人を案内する良いところがあるからと、保福寺を紹介してくれました。一月ほど保福寺に籠って仕事をしましたが、その折、中山の自然環境の素晴らしさ村の人々の温かさなどから、開成中学校から千石までの約8kmに亘る一帯を子供の楽園にしたらと思いを描いて、まず手始めに図書館を保福寺の横に建てました。東京にも二つの図書館をもっていましたが、中では一番大きいものでした。
1995年には、折井さんから13万冊の寄贈の申し出があり、松本市の新図書館建設計画を開始し、市購入図書を加えて15万冊を所蔵する市の6館目の分館として2001年4月に「松本市中山文庫」が開館しました。
松本市中山文庫は、折井さんの理念に副って、名前も中山文庫としたし、青少年の健全育成と科学教育の普及を目指し、自然科学講座やおはなし会なども行っています。
折井英治さんはどのような方だったのでしょうか?
英治さんは2004年に亡くなられたため、長女の折井雅子さんにお話を伺いました。
英治さんは、1909年現在の地名で言うと松本市中央で生まれ、文学者になる夢を持っていたのですが、家計が厳しく父親は松本中学校を卒業後働いてもらうつもりでいました。成績は優秀で、校長先生が「自分が学費を援助するから進学させてほしい」と親に話をするほどでした。そんな時、英治さんは台北第一師範学校(学費は要らない)が受験できることを知り、試験を受けます。[明治28年(1895年)から昭和20年(1945年)まで50年間日本は台湾を統治していました。]
師範学校卒業後、成績優秀だったために、台北第一師範学校附属小学校の教師として、文科系を教えていましたが、理科の先生が抜けたため、英治さんに白羽の矢が立ち、独学で理科を学びました。熱心に研究する英治さんは、いつのまにか理科で有名な教師になっていました。
この学校は日本の国立の小学校なので、台湾の子供は入ることができません。
英治さんは、戦争を憎んでいましたから、戦争が激化する中、生徒たちに戦争を正当化するように強要されていましたが、大事な生徒たちにそのようなことを言うのが嫌だと、学校をやめて、新聞記者として中国大陸に行きました。ここでも日本にとって劣勢な状況なのに優勢のように書かなくてはならないことに憤りを感じ、社長と喧嘩してやめて、日本に帰って東京で、早稲田大学や東京工業大学で特別研究生として化学を学びました。
戦後は、日本に帰って来ると、戦争で原爆が投下されたことにも憤慨し、正しい科学心を持たないからだ、子供のころから正しい科学を学んでほしいと、東京大学で教鞭をとる傍ら、青少年の科学普及運動を展開します。
中山に図書館を置いてからも「母と子の理科合宿」をはじめ各種講習会を企て、読書室も増設します。
「母と子の理科合宿」の内容は植物採集、昆虫採集、登山(美ヶ原または霧ヶ峰)、松本の歴史、松本城見学、天体観測、科学実験など。各科目には専門の学者が同行しました。
一回20名、貧しい家庭の子供も来れるようにと、交通費の負担だけで、参加費は無料でした。この合宿は日本中から親子が集まり、内容がすごいと評判でした。
合宿に参加したあるお母さんが言いました。「子供の成績が良くないことを気にしていましたが、登山に行くバスの中で車酔いした時に、子供が気遣ってくれてやさしい良い子だと気が付きました。学校の成績が全てではないこと、自分の子供の良さを知りました。」
また、1962年には、英治さんが台湾で教師をしていたことが縁で、台湾政府の依頼を受けて科学教育の支援のために台湾に行きました。それがまた台湾の人々との縁になり、1973年には台湾の子供、親、先生を40名中山文庫に招き、科学教育だけでなく、日本の文化を知ってもらったり、中山周辺の人々との交流の機会も催されました。
そして台湾の人たちが来るだけではなく、日本の人たちも台湾に連れて行くようになりました。この交流は毎年交互に行われました。
雅子さんが印象深いシーンを話してくれました。
皆が集まっている中で台湾の小学生が手を挙げて「みんなに話したいことがあります。僕は学校で先生から日本人は台湾の人を苦しめる悪い人間だと教えられていましたが、日本に来て良い日本人もいることがわかって、よかったです。」と言いました。
英治さんの著書から科学の楽しさが伝わってきます。
『こうしたらどうなる?どうしたらこうなる? 水のやまもり』10巻シリーズ(刊:大日本図書 1987年7月 長女の折井雅子さんとの共著)
初めに「この本では、水の表面は、できるだけ小さくなろうとし、まるでまくでもはっているかのようにつよいものであることを、つきとめましょう。」と書かれていて、水の性質の一つの表面張力に注目しています。突き止める方法を具体的にいくつも挙げています。大人の私でも、「え~、なんでだろう?」と水の世界に引き込まれていました。『こうしたらどうなる?どうしたらこうなる?』シリーズの案内として「このシリーズは だれにでもできる ちょっとしたあそびを とりあげ あなたが じぶんで ためしたり かんがえたりする おてつだいをします あなたの心が ますます ゆたかに そだつように」と書かれています。ぐっとくる言葉ですね。
『植物のふしぎ 母と子の科学問答』(刊:中央公論社 1957年12月)
こちらもシリーズ化されている著書の植物編です。はっとした言葉がありました。「種一つから葉や茎がどうしてできてくるのでしょう?」との質問の答えの中にあった言葉、「小さな種一つから葉や茎ができてくることをふしぎだと感ずるのは、生物学を学ぶ人の心です。私たちは日頃、生活の忙しさに追われて、物のふしぎを見落としていますが、見上げるような大木ももとはただ一粒の種であったことを思うと、あの小さな種の中によくもそんな力がはいっていたものだと驚かずにはいられません。」物のふしぎに気が付くと新しい扉が開き、感動と喜びを感じるのかもしれません。
「キュウリやナスを漬物にするとどうしておいしいのでしょう?」との質問もあります。どう答えますか?
英治さんは、中山地区に子供の楽園を作りたいと思っていました。その構想は、中山文庫の図書館、博物館、美術館、植物園、動物園、昆虫園、学者村、遊園地などでしたが、資金がなく中山では実現しませんでしたが、動物園は多摩動物公園として実現されました。
英治さんは上高地にも縁がありました。動物・植物・雪などを学ぶ学者や学生のための研究所として1951年に自費で自然科学研究所を建てました。その頃は「アルプス会館」と呼んでいました。それは、今の天皇陛下が皇太子様の時、名付けてくださったと聞きました。
その後手放すことになったのですが、まだその建物は目的を変えて利用されています。山の宿泊施設の「徳沢ロッジ」がそれです。北アルプスの山に登るときにはその前を通ります。宿泊したこともありますが、とても立派な建物です。
長女の雅子さんからお聞きした話の一部を記しました。英治さんの功績を知る人はそれほど多くはないかもしれません。このような素晴らしい方が松本にいたことを知ることができてうれしく思います。
「中山文庫」には英治さんの写真が飾られています。
松本市図書館 中山文庫
松本市中山3533-1
TEL 0263-58-5666
開館時間:午前10時~午後5時
休館:基本的には毎週月曜日と第4金曜日(他の日も休館になることがあります)