梓川かわものがたり「恵と災害の交差する歴史」 アカデミア館
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6月8日(水)~19日(日)まで松本市梓川「アカデミア館」で開催中の「梓川ものがたり-水害と開発の歴史を絵図から探る-」を見に行きました。
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およそ200年前からの絵図・地図に描かれた梓川の変化を学ぶ
長野県歴史館が所蔵する未公開の「寛政9年の梓川除絵図」や明治中・後期の「梓川平面図」があることを知り、「梓川ものがたり実行委員会」をたちあげ、梓川のもたらした災害の歴史や水の利用について調査研究を行ってきました。
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実行委員会の方々
事務局長の赤澤久喜さん、委員の高山和卓さんにお話しを伺いました。
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Q:このような展示をされるにあたりきっかけを教えてください。
A:池田町で高瀬川の同様の展示会がありそれを見に行った時に「梓川」のものも長野県立歴史館にあると聞き、ではやりましょうということになり、地元の関心のある人を中心に集まり実行委員会をつくりました。
元々それぞれの地域に保存されていた古文書などもあり、この企画に合わせてもち寄りました。ひとつひとつだとバラバラで大した宝にはなりませんけど、持ち寄って繋げていくと時間と場所が立体的に組み合わさってせていき、各地区では一面的でしかなかったものが一つのものがたりとして浮かび上がりました。
年代の違う絵図を見ると時代により流路が変わっていることもわかりまする。また、地域の人が時代によりさまざまな川よけ工事をしていることもわかりました。
Q:お客様の反応はいかがでしょうか。
A:こんな大きな地図があったことに驚く人が多いです。自分の地域が今と比べて昔はどうかといった、土地に刻まれた歴史を発見することがあります。昔は毎年のように水害があり昭和46年にダムが出来て水害が減ったが、想定外の大雨が降ると昔のような水害が起こる可能性が高くなっています。防災についても考えてもらいたいという意図もあります。
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初公開 さまざまに流れる梓川の川筋
寛政9(1797)年梓川川除絵図 2葉中の2図の一部
長野県絵図地図目録9-8-1~2「梓川川除絵図」図の左右から右左に向かって梓川が流れる。左岸(図下)松本市波田・新村・島立・島内、対岸が松本市梓川と安曇野市。川除工事が各所に描かれている。
川除とは・・「広辞苑」によると、洪水から家や田畑を保護する目的で「治水のために河岸・川中に設けた施設、堤防、蛇籠など」をさすといいます。
太い蛇のようにくねって描かれているのが、梓川の流れです。最初に描かれている場所は、梓川が山から平に出てくる波田の赤松からで、終わりは奈良井川に合流する熊倉までが描かれています。
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細い線では水が取り入れ口から各地へ引かれていった様子もわかります。 上の方は安曇野で、下の方は新村や島立へ流しています。
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川の流れが年によりあっちこっちへと流れをかえるため昔の人は、用水の取り口も流れにあわせて新しく作りかえなくてはなりませんでした。
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島内の個人のお宅に保存されていた貴重な絵図
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古図と現在の様子を比べて見ると、以前中洲だった場所に今は団地が出来ています。
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恵と災いの両方をもたらしている
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今回、実行委員会メンバーの後藤さんに展示の案内をして頂きました。
梓川は、恵と災いの両方を我々にもたらしている
恵は、広大な扇状地を作り、その水はその川を引いて田んぼや畑をうるおし、電力を供給するなど人々の営みを助けています。災いは、災害です。この展示は、恵と災いの両方を展示しています。
梓川の川原の石
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川は石を流して運んでくるので、川原では火山の石、堆積した石、マグマで変わった石(変成岩)など様々な石を見ることが出来ます。
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実際に梓川にある様々な種類の石も展示されています。スライドショーでご覧ください。
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江戸時代梓川沿いの村絵図
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崖の下工事見積書
川のすぐ上に道が出来ていた。道を維持するために高遠から石工が来て工事をしていたと書いてあります。
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梓川周辺の地質
パネル右 文化財となっている梓川沿いの巨岩
巨岩が突き出ているのは古い地層が飛び出た石か、流されて転がってきたのかまだわからない不思議な大岩です。
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松本盆地では、数多くの活断層が走っています。川と近い場所にあるものもあり大地震が起きた場合は、大きな災害が起きる可能性も考えられまする。
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かつては、暴れていた川の流れ
今我々の知っている川は流れが固定されていますが、固定されたのは、ずっと後に時代です。大昔はあちらこちらに流れが振れていて、多くの段丘面が出来ています。梓川では左の表に書いてあるように頻繫に水害が起きていました。
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梓川流域の水害
令和3年 豪雨水害
まだ記憶に新しい昨年の豪雨水害は、この地域にも大きな被害をもたらしました。
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近年は100年に1度の水害が1度ではなくなる可能性も生じています。
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水害の被害を最小限に防ぐために江戸時代に始まった川除(かわよけ)工法
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木の枠を組みそこに石を詰めたものを河原に造りました。それはごく最近まで行われました。
平成まで各地にみられた伝統的治水工法
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大洪水時、人々はどうしたかかた
ダムが出来る前は、頻繫に水害が起きていました。江戸時代の宝暦7年に大洪水が起きました。山がくずれて梓川をせき止め、溢れた水がドッと流れだして大洪水となりました。そのとき人々は、財産を安全なところに預け、着の身着のままで高台に逃げました。さらに決壊したことを下流の人に知らせるために各所に鉄砲撃ちを配置して、決壊したらズドーンと打つ、それを聞いたらまたズドーンと打つことを繰り返して下流へ伝えました。その結果多くの人が避難して大きな被害はが出たけど、死者は一人もいなかったそうです。備えをしておくことの大切さを伝えている話です。
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梓川の大満水後の川除工事(宝暦8年8月)
前年の大洪水のあとの工事の様子が描かれています。
エリアは、波田から三溝まで細かく割り振りして、農民たちを集めて工事をした記録です。
梓川大洪水後の川除工事
宝暦八年梓川川除絵図普請絵図
宝暦8年(1758)年 梓川の川除工事 松本城 松本市教育委員会文化財課課所蔵
どのような工事をしたか
三角反を作り、上流からの水を受け留め跳ね返して水流を弱めたなど当時の工事の様子をうかがうことができる絵図です。
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渡しと橋
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対岸へ渡る道がいくつもありました。その道が梓川を横切るとき、橋が架かっている場所や、渡し船を使った場所や浅瀬をそのままわたった場所がありました。
熊倉の渡し跡 スポット情報
こちら↓の記事もご覧ください。
『嶋之内の成立と発展~平瀬城&犬甘城 街道と水~』まつもと文化遺産令和2年3月認定
梓川の恵み
梓川の水は、各地で使われて、田んぼなどが開発されていきました。その水を確保するために、時に争いが起きました。
そこで、集中して一か所で管理する頭首工(とうしゅこう)が出来ました。そこから水を分けて流していくようになりきました。
和田・神林堰
梓川の上流から水を取り入れて、段丘崖下を流して、三溝のあたりでまげてから和田・神林まで水を流していきました。梓川の堰のなかでは開発が古い堰です。
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新村堰揚口争論の添付絵図 明和7年 個人蔵
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安定して堰の水を確保するために、梓川からの水の取り入れ口をどこにするか、そこからどのくらいの水量を取り入れるかは、大きな課題でした。上流から下流にかけて、多くの堰があったので、上流の取り入れ口が水を多く取ってしまえば、下流ではを確保できなくなります。そこで、時によっては水争いが起きるということもあって、人々は苦労をし、また知恵を出し合いもしました。
梓川の水利用を担う 梓川頭首工
梓川の両岸の水利用を効率的に行うため、梓川からの取水を担っています。頭首工で取水された水はこのあとトンネルを通り、赤松へむかい、各堰に分配されていきます。梓川の左岸や右岸には、梓川から採った水を流す堰が網の目のように造られています。
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梓川をつかって、山の木を下流へ運ぶ
かつては、山の木を伐って貯めておき、冬になるとそれを梓川にいれて下流へ流すことが行われていました。
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材木の集積地 堀米渡場
梓川を流してきた材木を、途中から榑木川に流しこみ、て島立堀米(旧堀米村)にある渡場で材木を陸揚げしました。その後集め松本藩城下で使用する建築材にしたり、人々の生活用の薪にしたりしたそうです。遠くまで運ばれた木材は善光寺平や江戸までいったそうです。
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堀米跡地の現在
帰りに堀米の榑木揚げ場跡まで案内して頂きました。
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榑木川
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大昔の梓川は、現在のように一本道の流れではなく、様々な方向に流れていて、その痕跡が残っているといいます。そしてだんだんに今の流路に定まってきたそうです。
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新村堰の取り入れ口の昔の様子がわかります。ダムができて、水力発電による電力の供給がされるようになりました。
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梓川の上流では、土砂崩れやそれにともなう堆積が起きていて、大きな課題になっています。
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近年、1000年に一度の大雨や洪水が起きる可能性に備えて、ハザードマップの改定が行われています。それを参考に、自分たちが住んでいる場所は、もしものときにどのような状態になるのかを知って、それへの備えをしておくことが大事なことになります。
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現在の地図に明治時代の絵図を重ねてみることができる画像です。100年間に梓川の流れや周辺がどのように変わってきたかをみることができます。
別室展示
別室には、明治時代の測量図が2点展示されています。
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初公開 梓川の土地利用 明治25(1892)年の梓川を1枚に描いた平面図
長野県測量図358「梓川平面図 従東筑摩郡島内村至南安曇群安曇村」縮尺1/12,000)図の左から右に向かって梓川が流れ、右側で奈良井川と合流する。色彩をもって川の状況、土地利用を描いている。
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初公開 築かれだした堤防
明治時代後期の梓川(長野県測量図760 「梓川平面図 自犀川合流至南安曇郡倭村大字岩岡」)図の左から右に向かって梓川が流れる。右端が現在の梓橋や大糸線鉄橋付近、左側が倭橋付近。不連続堤防が築かれている。
*写真は真ん中のみ撮影
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霞堤といわれる堤防が造られているようすをみることができます。
コロナ禍の中一度は延期された「梓川かわものがたり」展示会を見学することが出来ました。
川は常に私たちの生活と共にありました。川からの恵みと災いと共に昔の方が生きて来た姿が浮かび上がる研究の成果を見せていただきました。
それぞれの地域に遺された古文書、絵図を持ち寄り壮大なものがたりを紡ぎ出したというお話しにも深く感銘を受けました。
昨今世界中で水による大きな被害が度々報道されています。100年に1度あるかないかと言われる水害は、100年単位ではなくなっていることを実感しています。
これからどのように水害に向き合うべきか、昔の人の知恵や努力を見習ながら考えていかなければと思います。
取材にご協力頂いた実行委員会の皆さまに感謝もうしあげます。
♦主催 歴史的水害資料活用研究会 梓川かわものがたり実行委員会
♦共催 長野県梓川土地改良区 中信土地改良区連合ほか