お稲荷さんを訪ねて
松本城周辺に祀られている『お稲荷さん』を訪ねてみました。
お稲荷さんの「イナリ」は「稲が生る」→「稲生(イナナリ)からとされ、農耕の神様と言われることが多いです。しかし、ヒンズー教の鬼神として畏怖される茶枳尼(ダキニ)天と同一とみなされるなど、色々な説があるようです。
雨乞いや止雨・五穀豊穣・商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神など数々のご利益を願って祀られています。
<お稲荷さん、一口メモ>
*「正一位」と言うのは神様の位の中で最高位。
*お稲荷さんのお使いとされる狐が祀られていている。
*稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれるところが多い。
*鳥居を奉納する習慣は、願い事が「通る」或いは「通った」御礼の意味から、江戸時代以降に広がった。
*「二月初午」の日に稲荷大神様が稲荷山にご鎮座になった、と言うことから初午の日にお参りする。
2月の初午の日にお稲荷さん参りは如何でしょうか?
<お稲荷さんてくてくマップ>
<1、天白神社の稲荷>
天白神社は松本城の北東鬼門に位置にある。石川数正が信仰していた天白道場をこの地に開き、その鎮守神として八幡稲荷を勧請したと言う説もある。
<2、安原町の正一位世育稲荷>
安原町の北、廃仏毀釈で廃寺となった摂取院跡にある。もとは金具屋庄蔵の屋敷神であったが、安原町でお祀りするようになった。すぐそばに子どもを守る世育地蔵が祀られていたことから、世育稲荷と名づけられた。
<3、新町の正一位福徳稲荷>
北深志児童遊園地の隣に祀られている。維新前は、武家の屋敷神だった。現在は、新町町会でお祀りしている。明治45年の北深志の大火の際に、このお社だけが焼け残ったので、霊験あらたかと言われてきた。
<4、S家の三社稲荷>
明治初年にS家が移転してきたときにはすでにあったので、以前住んでいた武家が祀ったものと思われる。
<5、北上横田町の福徳稲荷>
嘉永6年(1853年92月初午に京都伏見稲荷よりお迎えしお祀りしたと勧請証書にある。大願成就のお稲荷様といわれ、赤い鳥居がぎっしりと立ち並んでいたそうである。
<6,7、F家の再城稲荷・文三郎稲荷>
藩の御用商人であったF家の先祖が、廃藩置県の折に城主から預かった、あるいは買ったと伝えられている。祠の屋根には戸田家の『はなれ六つ星紋』が刻まれ、祠内には『再城稲荷大明神』の棟札と御幣が納められている。
<8、木曽御岳教松本教会の正一位三夜稲荷>
北門大井戸の南となりにある教会(神社)に御岳皇大神とともに三夜稲荷が祭られている。お守りしている稲荷の数は、百を超えると言う。元はほとんどが個人所有だった。三夜稲荷・捨て堀稲荷などの名が付いていた。
<9、東町1丁目の稲荷>
東町一丁目、城東公園の西に位置するお稲荷さん。松本城城下町絵図によると捨堀土塁のすぐ東の場所である。明治45年の大火で焼失した社殿が昭和5年に再建された。
<10、正一位林昌稲荷>
林昌寺の境内南に祀られている。松本城造営時にすでにあり、その後、林昌寺が建てられたと伝えられている。石の鳥居には『厄除け稲荷社』の額がかかり、厄除けで有名なお稲荷さん。
<11、N家の稲荷>
三の丸・北東にあるお稲荷さん。維新前にこの地に住んでいた武家の屋敷神だったそうである。現在は、後に入ったN家がお祀りしている。
<12、若宮八幡社の稲荷>
松本神社の境内にある若宮八幡社のお稲荷さん。元は松本城二の丸の西片隅に城の鎮守社として祀られていたそうである。
<13、S家の菅沼稲荷>
片端通りに面したS家の敷地の一角に祀られている。戸田家の槍術指南役で他流試合に勝った先祖が城主から拝領した屋敷神である。社殿は明治45年の大火で焼失したが、大正3年に再建された。
<14、下横田の三弦稲荷>
裏町にある『はしご横丁』の入り口正面にお祀りしてある。かつてこの辺りは花柳界だった。三味線の神様として、花柳界が繁盛するように勧請したものといわれている。
<15、A家の正一位大天白稲荷>
正行寺のすぐ南隣に位置する。武家であったA家の先祖が円合院(後の金剛院)を建立し、その鎮守として祀ったという。金剛院は明治5年は廃寺。稲荷社は明治19年の大火で焼失したが、大正時代に再建された。
<16、K家の正一位上條稲荷>
外堀の跡地の一角に祀られてある。家の路地を通り抜けると現れる。上條家の先代が社殿を造営し、伏見から勧請したと言う。
<17、正一位美術稲荷>
北土井尻町の小路沿いにある。かつては個人の屋敷神だった。美術稲荷の名の由来は、白狐の姿が美しく術に長けていたからとされている。
<18、K家の稲荷>
美術稲荷の西にあるお稲荷さん。明治40年頃、K家の先祖が商売繁盛を祈願して勧請したと言う。現在は住宅の前庭に祀られている。
<19、T家の林昌稲荷>
高さ1mくらいの石柱に四角錐のかさをかぶせた珍しいお社。上の方に四角いくりぬき穴があり、陶製の狐像を安置していた。現在は屋内の神棚に狐像は移してある。
<20、正一位福徳稲荷>
矢口輪店東の駐車場の奥の一角に祀られている。自転車店の店主曰く、「なかなか居つかなかった猫が、お祀りするようになってから長生きするようになった。」霊験あらたかである。
<21,22、M家の稲荷>
西堀にあるこの稲荷社は通称『殿様のお稲荷様』と板橋家(戸田家臣)の『夜光稲荷』の2社をお祀りしている。2社とも別の家で祀られていたが、明治以降M家が預かりお祀りするようになった。
<23、正一位大天白白翁稲荷>
六九の旧アーケード街と女鳥羽川との間を走る通り。元は松本藩主の鬼門除けとして祀られていた社が、女鳥羽川の氾濫によってこの地に流れてきたと言う。白髭の老神が住人の夢に現れたことから白翁稲荷と呼ばれている。
<24、瘡守稲荷>
浄林寺本道の南に瘡守稲荷が祭られている。寺の守護を祈願して浄林寺がお祀りした。病気平癒に霊験あらたかと言う評判が立ち、花柳界をはじめ多くの参詣者が訪れていた。狛犬の代わりに大きなお狐様が両脇でお守りしているが、とても立派である。
<25、S家の金鈴稲荷>
ビルの6階にあり、お参りすることはできないが、S家によって代々お祀りされてきた稲荷社である。幟旗や太鼓がきちんと保存され、大切にされてきた。
<26、正一位安高稲荷>
生安寺小路(現・高砂通り)に祀られている。以前は養蚕の成功を祈願して参拝に訪れる人が多かったという。お賽銭の投入口もお稲荷さんの火焔である。
<27、飯田町1丁目の稲荷>
個人が商売繁盛を祈願してお祀りしたものだった。明治21年の大火でこの家の土蔵だけが焼け残ったので、それ以来『火防稲荷』と呼ばれ町会で全体でお祀りするようになった。
<28、正一位真綿稲荷>
明治末期に宮村町で製糸業を営んでいた中村製糸場の庭に祀られていた。周りに真綿がたくさん積んであったところから真綿稲荷と呼ばれたという。昭和初期に製糸業廃業に伴い宮村町に寄付された。
<29、正一位高尾稲荷>
深志神社本殿左脇にあるお社に祀られている、見過ごしてしまうほど小さなお社だが、中には平成3年と書かれたお札が奉納されている。
【写真:西森】 《参考文献》 長野県民俗の会通信152号 松本―城下町の稲荷信仰・・・臼井ひろみ 氏