虚空蔵山と善光寺街道~祈りの道~ まつもと文化遺産

虚空蔵山と善光寺街道 ~祈りの道~
令和7年3月24日に令和6年度まつもと文化遺産に認定されました。
保存活用団体 四賀文化財保護協会
構成する文化財(関連文化財群)
虚空蔵山と善光寺街道に関連する文化財
昨年8月に視察に伺ったレポートを掲載いたします。
まつもと近代遺産認定候補の松本市北にある四賀地区視察で6年8月1日伺いました。
中央に見える山は会田富士と呼ばれる「虚空蔵山」です。慶長19(1614)年に善光寺街道の宿場まちが設定され本陣も置かれた。
高貴な方も宿泊するので、警備上あえて道を計画的に回して作られている。

四賀文化財保護協会の市川さんに四賀地区の歴史と地形について概要をお伺い致しました。
虚空蔵山城の本丸から下に8合目辺りに大きな岩があり「天の岩蔵 虚空蔵菩薩が祀られている」
四賀は4つの地層から成り立っている。古い地層が内村層、別所層(鯨の化石が出る レイガンの地層)青木層(サシツレイガン+レキ)
更に新しいのは小川層(砂岩 800万年前~600万年前)海底の浸食によりそのまま隆起している。
四賀地区には、古代から文化の大動脈である東山道の本線と支線が通り、鎌倉時代になると伊勢神宮内宮の領地となり、地区の中心に会田御厨神明宮が鎮座しました。
仏教が入る前から地層に洞穴があれば礼拝対象物が祀られて、神と修験道の世界が展開されていた。

会田御厨神明宮(あいだみくりやしんめいぐう)
鎌倉時代に伊勢神宮の領地となり地区の中心に「会田御厨神明宮」が鎮座しました。

市川さんのお話し「伊勢神宮内宮の制度 御厨(みくりや) 鎌倉時代から伊勢神宮の領土となった会田御厨神宮
遡上してくる鮭の干し物や卵を塩漬けにしたものを伊勢神宮に納める」
奉納絵馬 潮干狩りの図 北鵞齋弘探 画

潮干狩り絵図 抱亭五清 画
高見書店を頼って抱亭五清(北鵞齋弘探の弟子)が松本に来た時に、師匠の絵をまねた屛風絵を描いたのでしょうか。この写真の絵はレプリカです。
本物は栃木県博物館に所蔵されている」
遊女が潮干狩りをしている図

会田御厨神明宮
鎌倉初期に会田の地頭海野氏の寄進により成立したと思われる内宮会田御厨、70町の惣社で旧郷社。本殿は宝暦6年(1756)の再建で神明造り、隣の宮本公民館は神宮司のあったところで多くの仏像が安置されている。


奉納絵馬 潮干狩り絵図
ほうのう えま しおひがり の ず
「潮干狩之図」
- 指定等区分 松本市重要文化財
- 指定年月日 平成18年3月27日
- 種別 絵画
- 所在地 松本市会田4040-1
- 所有者 会田御厨神明宮
- 時代区分 江戸時代

松本市HPより
海から離れた四賀に伝わる潮干狩りの絵馬
会田地区の会田神明宮(しんめいぐう)にある絵馬で、潮干狩りの様子が描かれています。縦77.0cm、横159.0cmと大きな絵馬で、杉板に彩色され、周囲を額装しています。
画面の落款(らっかん)に、
「天保二 辛卯 花月 北鵞齋弘探 印(朱文) 印(白文-弘探画印)」裏面に墨書で、「天保二 辛卯 三月 原山村 明照院弘探 敬白 越後國 大工 藤村音松作之」とあり、天保2年(1831年)の制作とわかります。描き手である北鵞齋弘探の経歴は不明な点が多いです。絵馬の裏面にある原山村(松本市中川原山地区)には明照院は存在しませんが、原山村にかつて修験者が住んでいたという伝承があり、弘探は明照院と称する修験僧であったとも考えられます。また当地には、無住のお堂と弘探を結びつける史料も伝存しません。
絵馬は彩色の剥落や褪色が進み生彩を欠きますが、遠景に富士の頂と山なみ、松樹、そして海に浮かぶ白帆の舟を配し、中景から近景に、砂浜で潮干狩りに戯れる唐子(からこ)、また着物の裾をはしょり潮干狩しに興じる女性、世間話に手を休める美人を描いています。江戸庶民の暮らしをかいまみせるほのぼのとした絵馬です。人物は遊女、または芸妓とみられ、艶やかな雰囲気が伝わってきます。彩色は、紅、藍、緑青、墨などを効果的に用い、さらに砂浜の表現に梓川の黒砂を用い、質感を出す工夫をこらしたと伝えられています。

善光寺街道 善光寺常夜燈 安政2年

松尾芭蕉句碑 更科日記ここを通っている
弘法大師袈裟かけの松(元は大きな松があった)

信濃二十番札所岩井堂観音堂

岩井堂
『善光寺道名所図会』に天平勝宝の頃、行基菩薩が草坊を結び千手観音を刻み、弘法大師が鎮護国家の霊場とし大日如来を安置したとあり、弘法大師の伝承を伝えています。山は砂岩の海蝕奇岩で、明治から昭和初年にかけて石炭を採掘していました。
観音堂は信濃三十三番霊場の第二十番札所で、特徴ある千手観音像を安置しています。観音堂の周囲には11体の摩崖仏と多くの石仏があります。

千手観音像

岩井堂観音 山周辺石造物群
百体観音の内52体をはじめ、石仏が観音堂周辺の岩山に点在している。



松澤家 茅葺屋根の門 幕末には寺子屋で剣道を教えていたそうです。


以下まつもと文化遺産HPより
ストーリー
四賀地区には、古代から文化の大動脈である東山道の本線と支線が通り、鎌倉時代になると伊勢神宮内宮の領地となり、地区の中心に会田御厨神明宮が置かれました。その後、小県郡の滋野氏の一派海野氏がこの地に進出し、御厨の地頭となり、以後会田氏と名乗り勢力を広げました。そのため、戦国時代の会田氏の館跡、虚空蔵山城などの遺跡も多く残されています。
また、古代から交通の要衝であったことから、江戸時代には、幹線の五街道に対して支線ともいうべき脇往還が整備されました。四賀地区においては、中山道の脇往還で善光寺道とも呼ばれた北国西脇往還や、東山道以来の古道であり江戸道とも呼ばれた保福寺道も通過しました。善光寺道には刈谷原と会田、二つの宿場が整備され、会田宿は松本・善光寺の中間に位置し、上田方面や安曇野方面への分岐点でもあり、宿場としての機能の他に嶺間地方の経済・文化の中心地ともなっていました。
時代は下り、四賀地区は明治初めの廃仏毀釈の影響を受けることがなかったため、寺社や仏像が数多く現存しています。また、2,900基以上の石造文化財が地域内に残るなど、民間信仰が極めて盛んな地域であったことがうかがわれ、深い信仰心が人々の暮らしと心を支えてきました。
活動
四賀文化財保護協会では、村時代に編纂された「四賀村の石造文化財誌」と「四賀村の寺社文化財誌」を活用した公民館文化財講座を年数回開催、公民館事業「四賀地区内ウォーキング」開催時に講師として地区の文化財の説明、地区内にある文化財の状況調査などを実施してきました。
今後は、善光寺街道と虚空蔵山登山道の整備や、文化財案内看板の設置、四賀小学校の遠足へ同行しての関連文化財群の説明などを計画しています。