田村堂から若澤寺跡
松本市内から国道158号線を西の上高地・乗鞍方面へ行くと、山の中へ入っていく手前の山麓に「波田地区」があります。その波田地区には古くからの神社・仏閣がたくさんあり、その中の田村堂や仁王像、仏像などは国の重要文化財になっているのです。あまり知られてはいないのですが、昔この波田地区には、この画像の略絵図のような「信濃日光」と呼ばれるほど壮大な「若澤寺」と言うお寺があったのです。今回はその「若澤寺跡」をご紹介したいと思います。
「若澤寺」とは、松本市山麓の「波田地区」の山の奥深くに存在していた、とても大きなお寺です! しかし、現在はお寺の建物は全て無くなっていて、礎石と石垣や石碑などが残っているのみです。でも確かにこの場所に大きなの寺の伽藍があったということだけは確実に在った事なのです。
「若澤寺」は、奈良時代に「行基」という有名な僧侶によってお寺が建立されたのが最初だという伝説です。「坂上田村麻呂」も来ているらしいです。最初は、白山の南の大堂ヶ原で、その後水沢山頂付近で現在の「元寺場跡」という場所にあったらしいのですが、室町時代には少し下の現在の「若澤寺跡」の地に移ってお寺は大きくされたらしいです。そして戦国時代には武田家や小笠原家の後ろ盾を得てどんどん大きくなり、江戸時代のベストセラー作家である「十返舎一九」も来て書物に書いたりして有名になっていきました・・・。この絵は、江戸時代後期に描かれた「若澤寺一山之略図絵」というモノらしいのですが、一大集落と言えるぐらいにとても大きなお寺だったのが良く分かります。そして、江戸後期の時代は「信濃の日光」と言われるぐらいに繁栄を極めていたらしいです! こんな巨大なお寺が、波田の山の中奥深くにあったなんて、今では全く信じられないぐらいの略絵図です! しかし、繁栄を極めていた「若澤寺」も明治初年の「廃仏毀釈運動」という仏教を弾圧する運動の影響を受け、お寺の建物は全て破壊あるいは移転されてしまったらしいです・・・。なので現在は史跡しか残っていないようです。でも、その時に貴重な仏像や建物などはこの地域の他に壊されずに残ったお寺などへ移されていって、建物や仏像などは現在でもちゃんと残っているようです・・・。
「仁王門」
「若澤寺跡」へのトレッキングは、この「仁王門」からスタートです。朱に塗られた萱葺屋根の美しい仁王門で、中には阿吽の金剛力士像があります。県宝に指定されています。 「仁王門」は元々若澤寺の末寺にあたる「西光寺」のものでしたが、元禄4年(1691年)に西光寺が廃寺になった際に、地元の人たちの手でここに移され、以後は若澤寺へ上がる参道の最初の山門となりました。毎年4月には「仁王尊股くぐり祭り」が行われ、仁王様の股の間をくぐった子供は丈夫に育つと言われ、親子連れで賑わいます。(仁王門の詳細はコチラ→「仁王門」)
「田村堂」
仁王門をくぐって少しだけ進むと、右手にこの「田村堂」があります。「田村堂」は、「若澤寺」の最上段にあったお堂です。田村とは、もちろん「坂上田村麻呂」の事で、坂上田村麻呂によってお寺を大きく興す事が出来たために祀られているようです。明治元年の廃仏毀釈によって若澤寺が取り壊されたときに、地元住人によりこの位置に移されたらしいです。昭和28年に国の重要文化財に指定されています。
「覆屋の中の田村堂」
覆屋の建物の中には、この祠のような「厨子」があります。これが若澤寺から移されてきた「田村堂」です。建築様式の特徴から室町時代後期の作品のようです。当時は金箔が貼られていたようです。この扉の中に坂上田村麻呂の像が入っているらしいです。
「若澤寺跡」への参道は、仁王門を過ぎて道沿いに50m程進んだところを左折して民家の間を上っていきます。そしてこの道標を右折する所から、軽トラが通るぐらいの林道になります・・・。ここからは山道なのでトレッキングシューズを履いていく方が良いと思います。ここから「若澤寺跡」までは1.5kmです。
「丁石」
「丁石」とは、若澤寺へ上がる山道の参道沿いに、迷わないように道標として置かれた石です。昔はこの丁石を辿って若澤寺まで歩いていったのです。「丁石」は、一丁=109mごとに置かれたいたので「丁石」と言われたらしいです。「仁王門」から→「若澤寺」までは1.6kmぐらいらしく、「丁石」は全部で18個あったらしいです。 現在は10丁石、13丁石、14丁石、16丁石だけが参道沿いにあり、他の残っている丁石は田村堂の前に集めて置かれています。 画像のものは、上段に古い仏教の梵字が3つ書かれていて、その下に「第十四丁石」と書かれています。
「第十三丁石と祠」
13丁石目は、巨木の場所にあり、鳥居と祠もありました。一番左の石が「第十三丁石」です。
その後もどんどん登っていくと、林道は左に分岐している所が2箇所ありましたが、「若澤寺跡」へは道標に従って真っ直ぐ上向き(分岐としては右側)に登っていきます。そしてスタートしてからゆっくりと30分ぐらい歩いたぐらいで、突然開けた場所にでます。
その開けた場所が、「若澤寺跡」になります。到着しました! こんなに山奥に、最初の画像「若澤寺一山之略絵図」の絵のような壮大なお寺群があったのに、驚きでした。入口にポストのような入れ物があり、その中にこの「若澤寺跡」のパンフレットが入っています。それを1枚取って説明を読みながら上の段へと上がりましょう。
「方丈の礎石」
ここからが「若澤寺跡」になります。
「若澤寺跡」は6つの平段で構成されていて、一番下の段には現在は何もありませんでした。2段目に上がると碁盤の目のように「礎石」が並べられている広い場所に出ます。 ここには、最初の「若澤寺一山之略絵図」の画像の中の中央より少し右下にある「方丈」や「護摩堂」と言われる大きな建物があった場所のようです。
「中堂救世殿跡」
次の段に上がると、そこには「水澤観世音霊場」と書かれた大きな石碑と石灯篭が残っていました。ここは、最初の絵の中の中央少し左の一番大きい「中堂救世殿」という建物があったところのようです。これらの他にも石仏や石碑が数点ありました。 パンフレットの説明の看板を読むと、この「中堂救世殿」の建物は「若澤寺」が壊される時、秘かに波田地区の下にある「盛泉寺」へ移されて、現在も盛泉寺内の「水沢観音堂」として建っているのです。 (盛泉寺の詳細はコチラ。→「盛泉寺」)
「金堂跡」
「中堂救世殿」からもう一段上がると、「金堂跡」と書かれている現在は何も無い平場になります。ここには「金堂」というお堂があったらしいです。しかし、この「金堂」も若澤寺が壊される時に秘かに移されて、現在の松本市今井の「正覚院観音堂」にある「金堂」になっているようです!
「田村堂跡」
そして最上段へあがります。ここは、一番最初の画像「若澤寺一山之略絵図」の一番左にある田村堂のあった場所「田村堂跡」です。もちろん、スタート地点にあった「田村堂」のことで、ここから移されていったのです。
「長禄之阿弥陀来迎三尊種子碑」
「若澤寺跡」の段の広場を最初の入口まで降りて行くと、向かって左側に「長禄之阿弥陀来迎三尊種子碑」という石碑がありました。真ん中に3つの梵字が大きく書かれているらしいですが、かなり朽ちている感じでなかなか読めませんでした・・・。
「雄鳥羽の滝」
「龍神の石碑」
「波田神社」
そして、広大な「若澤寺跡」を一通り見た跡は、また参道である山道を歩いて帰ってきました。スタート地点の場所にはもう一つ「波多神社」があります。この「波多神社」は「若澤寺跡」と同じではありませんが、スタート地点である仁王門と田村堂の隣にあります。創建は、社伝によれば神亀5年(725年)と伝えられているようです。現在の場所に移ったのは永正元年(1504年)らしいです。江戸時代までは「熊野大権現」と呼ばれていたようです。最後はこの「波多神社」を参って、今回のトレッキングを終わりにしました。
「若澤寺跡」には、最初の画像「若澤寺一之山略絵図」のような壮大なお寺群が実際にあったのです。パンフレットを見ながらそこに確かにあったお寺群を想像しながら跡地を見て回ると、その時代にタイムスリップ出来そうに感じました。そして謎と謎が点と線で繋がったりして、歴史のロマンはとても面白いです。 ぜひ、機会があれば「若澤寺跡」へ参道を歩いて見に行ってみて下さい。