創業天保3年城下町の老舗「萬年屋本店」松本城捨掘土塁跡見学 ③
萬年屋本店の裏庭には、松本城捨掘土塁跡があります。
店主の今井さんに案内して頂きました。
萬年屋、松本城捨て堀の土塁跡
現在の萬年屋の敷地は、旧城下町の武家屋敷と町人街の境にあります。 武家屋敷の部分は明治以降、当家が買い足したもので、かつてはこの境に捨て堀と呼ばれた全長300メートルに及ぶ堀があり、町人街と武家屋敷をへだてておりました。 松本藩主、石川康長は江戸幕府に無断でこの堀を掘ったことが原因で改易されたとも言われております。 この堀を掘った土は土塁として盛り土になっていたのですが、明治以降水害の折々に土嚢に使用され、現在ではほとんどその跡をとどめてはおりません。 萬年屋の敷地内にはこの土塁跡が保存され、丹精された四季折々の花々と共に御来店の皆様に御照覧いただいております。(萬年屋公式サイトより)
少し前のブログに戻り「捨掘土塁」についておさらいをしてみます。
国宝松本城土塁跡 西総堀土塁公園/東総掘残存土塁/北総掘残存土塁
そもそも土塁って何だろう?
城の一番外側の総堀を掘った土を内側に盛り上げて高い土の土手を造りました。それを土塁(どるい)といいます。江戸時代には三の丸のまわりを土塁がぐるりと周っていました。(国宝松本城公式サイトより)
土塁は、松本城の内側(郭内)と外側(郭外)を分ける役割を持っていました。
戦国時代や江戸時代の人たちは、堀と土塁が周囲を取り囲むことで、守りを固めて的の収入を防ぎ、また見た目からも打ちと外を区別していたのです。
萬年屋本店さんの位置を水巡りマップの古地図を拡大して見てみると
土塁公園のパネルの写真です。ここを見ると5番目の「商家の庭として保存されています。」に当たります。
萬年屋本店の裏庭にある捨掘土塁跡
一見すると、土塁跡はどこもただの小さな丘のように見えますが、土塁跡の地形をそのまま残しているのは、とても貴重なものになります。
上部に照明が見えますが、その右に夜光稲荷さんの屋根が少し見えます。
萬年屋、夜光稲荷の伝説
大坂夏の陣の折りの事だそうです。 当時、松本城主になる以前の戸田康長が、夜の合戦で敵との組討になりました。 家臣たちが救おうとするのですが暗闇の中、どちらが主君でどちらが敵かわかりません。 その時、一匹の白狐が火の玉とともに飛来したため辺りが明るくなり、組みしかれている康長の姿が浮かび上がったので、家臣が主君を救う事ができたのだといいます。 このことから康長は松本に移封後、城内に夜光稲荷を祀り、それが後々城主の変遷とともに家臣の屋敷に移されました。 明治以降その家臣から当家が土地を買い受けた折に、この夜光稲荷も萬年屋でお祀りすることになり、前述の捨て掘の土塁の天辺に祠を建てて現在にいたっております。 たびかさなる明治以降の水害の際に当家の部分だけ土塁が保存されたのは、このお稲荷様あってのことと伝承されております。 捨て堀で改易された石川氏、夜光稲荷の伝説の戸田氏共に、忌み名が康長であることも、歴史の偶然ではあります。(萬年屋さん公式サイトより)
味噌工場の2階の窓から夜光稲荷さんを撮影しました。
松本五十連隊の糧秣庫
火災に遭い消滅した味噌工場は、松本五十連隊の糧秣庫(食料倉庫)倉庫を払い下げたものを移築したそうです。
建物は、大正時代のものだそうです。
信州大学に残る 「旧松本歩兵第五十連隊 糧秣庫(国登録有形文化財)」
松本五十連隊と糧秣庫について
松本歩兵第五十連隊は、日露戦争のさなかである明治38年(1905)に編成され、明治41年(1908)から松本に駐屯をしていますが、糧秣庫はこの頃に造られたと考えられています。かつて、旧日本軍の歩兵連隊が松本に駐屯していたという歴史を現在に伝える貴重な建物です。(松本市HPより)
萬年屋本店さんに3回連続に記事はこれで終わりです。歴史あるお店のその歴史の1部を見せて頂きました。