貞享義民塚等「貞享騒動の記憶」まつもと文化遺産令和5年度認定

2023.12.8
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貞享義民塚等「貞享騒動の記憶」まつもと文化遺産令和5年度認定

令和5年10月6日(金)

まつもと文化遺産関連文化財審議会のフィールドワークで「貞享騒動の記憶」にまつわるスポットに行きました。

バスの窓から見たのは、常念通り旧町名「駒町」にある石碑
貞享騒動の際、馬が力尽きて倒れた場所

駒町 馬頭観世音について 以下松本市文化財課の資料

貞享騒動にまつわる伝説が残る馬頭観世音。

水野忠直が松本藩主を務めていた貞享3(1686)年、松本に起こった百姓一揆は貞享騒動と呼ばれる。一揆の首謀者であった加助らは捕らえられ処刑されることとなった。

水野家の重臣であった鈴木伊織は、将軍家からの赦免状を携えて江戸から早馬で松本へ駆けつけたが、駒町のあたりで早馬の足が折れ、遂には処刑の時刻に間に合わなかったという伝説が残る。石造の下には、その時の馬の頭蓋骨が大甕に納め葬られているといわれている。駒町の町名は、この伝説に因んで、明治になって名付けられた。

駒町

丸の内中学の上に位置する「貞享義民塚」に着きました。

石碑

平成28年(2016)、公益法人制度の見直しによって、義民塚を築いた際に発足した貞享義民顕彰会が解散するにあたり、株式会社サンエネックにより大規模な義民塚聖域整備事業を実施しました。整備にあたった関係者によって「義民塚を守る会」を設立し、義民塚及びその周辺の環境維持活動を実施しています。(文化財課HPより)

石碑

義民塚を守る会 二木会長よりお話しを伺いました。①

老朽化した義民塚をどうするか相談され当時はこの辺りは木はうっそうと茂り、以前あった会館はグラグラしていて建物は崩れそうな状態でした。お金は全然ないので、やり方は任せると言われ、土地の1部を売却した収益を整備費に充てて、新しくしたそうです。その後も引き続きボランティアで地域の人も交えて清掃活動や神事などもおこなっています。

整備された跡

義民塚お堂

義民塚

昭和25年丸の内中学校体育館の建設のため工事をしたところ、地下から18体の遺骨が出てきました。
また井出川の刑場跡からも出た遺骨が出て来ました。

貞享3年(1686年)に松本藩領内で大規模な百姓一揆が起きた。首謀者の名を取って「加助騒動」と呼ばれています。

加助騒動

1684年(貞享元)凶作が続き農民の生活は苦しく、農民の悲願を受けた庄屋の加助が年貢の軽減を長尾組の組手代に申し出ますが受け入れられず、松本藩に陳情したことによって、庄屋の身分を取り上げられました。

その2年後、凶作と疫病が同時に民を襲い、餓死者も出たために、加助は神社の拝殿で12人の密議のうえ年貢軽減の「5カ条の訴状」を松本城下郡奉行に提出します。松本平の農民1万人が、竹槍をもって城に押し寄せる騒ぎになりました。願いはいったん聞き入れられたものの、1カ月後にはなかったものとされ、この騒動を指揮した罪で加助とその同志、一族ら28人は幼い娘まで含めて勢高と出川の刑場ではりつけ、打ち首の刑に処されました。

 

義民塚

義民塚を守る会 二木会長よりお話しを伺いました。②

丸の内中学の体育館の建設工事現場で、遺骨が発掘された時の状況、その後遺骨を埋葬した経緯など現場にいた人に会いに行き直接当時の様子を聞いた話を伺いました。

義民塚を守る会代表

以下「義民塚を守る会」資料より

昭和25年(1950)、城山の刑場跡から出土した人骨を埋葬した義民塚がつくられ、現在まで慰霊祭が行われています。

貞享騒動は、明治時代に自由民権運動が盛んになると、「権力への抵抗」の先駆けとして貞享義民が評価され、顕彰が行われるようになり、現在も人々の記憶に残り続けています。

 
発掘現場の丸の内中学校

義民塚お堂内に展示された絵画

義民塚を守る会 二木会長よりお話しを伺いました③

飯を炊く釜はあるのに、米はない。百姓一揆が起きる当時の切実な状況を表す1枚です。

お堂内

義民塚を守る会 二木会長よりお話しを伺いました④

ここから真っ直ぐ先に松本城が見えます。

義民塚のお堂は、45度で傾いて建てられています。真っ直ぐ松本城を向いていることは、松本城を睨んでいることとも取れます。

松本城が見える

埋葬された方々のお名前

貞享義民二十八柱

貞享義民二十八柱

令和5年12月1日 まつもと文化遺産に認定されました。以下松本市文化財課HPです。

貞享騒動の記憶

認定年月日 令和5年12月1日
保存活用団体 義民塚を守る会
構成する文化財(関連文化財群)
貞享騒動ゆかりの文化財
貞享義民塚
貞享義民塚
昭和25年(1950)、丸の内中学校建設工事の現場から18体の遺骨が見つかり、それまでわからなかった貞享騒動の勢高臨時刑場の場所の発見となりました。この遺骨を改葬し、出川刑場で処刑された13名を合わせて供養するため、当時の松本市長を務めていた松岡市長を会長として貞享義民顕彰会を設立し、貞享義民塚を築きました。


泣き坂と別れ石

泣き坂と別れ石

​ 貞享3年(1986)年、「貞享騒動」と呼ばれる農民一揆がおこりました。この一気に参加した農民は総勢1万人にものぼるともいわれますが、わずかな日数で鎮圧され、40余りが逮捕されました。このとき逮捕された首謀者の加助たち一行は、熊倉の渡しから船で犀川を渡ったといい、島内の高台で故郷を見るために振り返ったといいます。「泣き坂」と「別れ石」の話は、義民伝承の一つとして今日まで語り継がれています。


ストーリー

​ 「貞享騒動」は、貞享3年(1686年)に松本藩領内で起きた大規模な百姓一揆で、首謀者の名を取って加助騒動とも呼ばれます。水野家3代藩主の忠直が年貢の負担増を課したことから、これに反対する農民が藩内全域で蜂起し、1,700人余りが城下に押し寄せたといいます。藩はこの一揆の首謀者とその家族を城山と出川の刑場で処刑しました。昭和25年(1950)、城山の刑場跡から出土した人骨を埋葬した義民塚がつくられ、現在まで慰霊祭が行われています。

貞享騒動は、明治時代に自由民権運動が盛んになると、「権力への抵抗」の先駆けとして貞享義民が評価され、顕彰が行われるようになり、現在も人々の記憶に残り続けています。


活動

平成28年(2016)、公益法人制度の見直しによって、義民塚を築いた際に発足した貞享義民顕彰会が解散するにあたり、株式会社サンエネックにより大規模な義民塚聖域整備事業を実施しました。整備にあたった関係者によって「義民塚を守る会」を設立し、義民塚及びその周辺の環境維持活動を実施しています。また、義民塚の清掃を丸の内中学校PTAと連携して行っています。

今後の活動として、貞享騒動について関心を持ってもらうためのパンフレット作成と配布、関連文化財群の見学会開催などを計画しています。

文化財群位置図

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伊織霊水

鈴木伊織の墓
こちら↓の記事も合わせてお読みください。

まつもと湧水巡り「伊織霊水」農民一揆「加助騒動」救済に尽くした松本藩士鈴木伊織の墓所前の井戸

 

加助惜別の岩

まつもと文化遺産の以前の記事も併せてご覧ください。

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