お城主様のお墓参り

2009.6.7
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松本城のお殿様は、石川家 ・小笠原家 ・戸田家・松平家・堀田家・ 水野家の六家でした。
今、松本市内に眠っていらっしゃるお殿様のお墓参りをしてきました。江戸時代のお大名家のお墓の在り様に昔が偲ばれます。
車を使って半日で回れるコースです。
お殿様お墓参り

1. 御殿山小笠原家廟所(ごてんやま おがさわらけ びょうしょ)

松本市浅間温泉1175
御殿山2御殿山1

浅間温泉・御射神社脇の道を水路に沿って歩いていきます。山の中に入って行くと、途中に石で囲まれた場所があります。ここが、松本城の基礎を築いた初代小笠原家の城主貞慶秀政・忠脩父子を祀った廟所で、3基の五輪塔が建てられています。
静かな御殿山の中にひっそりとあります。不思議な気配を感じるかもしれません。

【松本のたからより】
3基の五輪塔は向かって右から秀政、貞慶、忠脩です。
秀政は『臨済寺殿』貞慶は『大隆寺殿』忠脩は『法性寺殿』とそれぞれ埋葬された寺名に関係の深い戒名がつけられています。
秀政と忠脩父子は元和元年(1615)の大坂夏の陣で戦死し、京都で荼毘(だび)にふされました。父秀政は埋橋(うずはし)の宗玄寺に葬られ、忠脩は戦死した島立貞正ら七人の家臣とともに浅間の大隆寺跡へ設けた法性寺墓地に葬られました。この廟所に実際に遺骨が埋葬されているのは、忠脩のみです。
現在の五輪塔は、貞享2年(1685)に荒廃の様を見て嘆いた松本城主水野忠直の呼び掛けにより、小笠原家の旧臣の子孫たちが協力して九尺四面の御霊屋(みたまや)とともに建立されたものです。御霊屋は天保7年(1836)に焼失し、再建されていません。
廟所の大きな石垣は平積形式で古く、往時を偲ばせます。前面の平地は大隆寺、のちの法性寺が建てられた場所です。
なお、広沢寺にも小笠原秀政・忠脩父子の墓所があり、五輪塔が建てられています。

2. 水野家廟所(みずのけ びょうしょ)

松本市大村681(玄向寺墓地隣地)
水野家は寛永19年(1642)から享保10年(1725)に至る6代82年にわたって松本城主でした。ここ、玄向寺は墓守寺でした。
玄向寺1玄向寺2

玄向寺の脇の道を進み、山の中に入っていくとと廟所にたどり着きます。
玄向寺3・鳥居
正面には、忠直が廟所の造営に着手した寛文9年に建立した石の鳥居が建っています。この石の鳥居は松本地方で一番古いものだそうです。鳥居の奥に立派な廟所が見えます。
玄向寺4・五輪塔廟所には高さ3mを超える五輪塔9基があり、周りは石の垣根で囲まれていて、とても立派な廟所です。大名家らしい感じがします。


【松本のたからより】

玄向寺5・五輪塔
寛文9年(1669)、水野家第3代水野忠直が本堂以下の廟所を設け、父忠職(ただもと)の法名をとって上昌山玄向寺となりました。
しかし、ここに実際に遺骸が葬られたのは、水野忠直のみで、残りは供養塔です。なお、供養者は松本水野家藩祖水野忠清及び同室、2代忠職及び同室、3代忠直及び同室、4代忠周及び同室と5代忠幹です。ただし、6代忠恒は改易となったため、供養塔もここにはありません。

3. 石川数正夫妻供養塔(いしかわかずまさふさい くようとう)

松本市里山辺2940
兎川寺1飛鳥時代に聖徳太子が創建したと伝えられる兎川寺です。石川数正をはじめ、小笠原氏など歴代松本城藩主の信仰の篤かったお寺です。
兎川寺3
樹齢200年といわれるシダレザクラが有名で桜の時季にはたくさんの見物客が訪れます。
兎川寺2本堂に向かって左側に信濃松本城初代藩主・石川数正夫妻供養塔があります。いつごろ、誰が建てた供養塔なのか詳しいことは分かっていないようです。


4. 戸田家廟園(とだけ びょうえん)

松本市県2-5-3
戸田家3地域の方々からは『「お塚』とよばれ親しまれている、この戸田家廟園は、石垣によって囲まれ、その中に赤い垣根に囲まれた塚があります。
戸田家4二重になった石垣の中にあるのが丹波塚です。その墳上に大きな五輪の石塔があります。
【松本のたからより】
碑の地輪に「祥雲院殿一運宗智大居士」と彫られ、前面に石の香鉢が供えられています。これが松本戸田家の祖、戸田丹波守康長の墓です
この丹波塚の北には光行(後の6代)や光年(みつつら 後の7代)の墓、光領(みつむね 後の8代光庸(みつつね)の弟)やその室の墓、そのほか関係者の碑などがあります。光行の碑には「瑞光院殿祥巌道麟大居士」、光年の碑には「神龍院殿大光啓雲大居士」と彫られています。
戸田家は、元和3年(1617)から寛永10年(1633)まで、享保11年(1726)から明治3年(1870)までと2度にわたって城主でしたが、城主で実際にこの廟園に葬られているのは、初代康長、後の6代光行、後の7代光年のわずか3人だけです。
戸田家2墓守寺・前山寺の長屋門が残る
廟園の南側には、安政2年(1855)に最後の城主9代光則(みつひさ)によって廟所の寺としてここに移された前山寺(ぜんざんじ)の長屋門が残っています。とても趣きのある長屋門です。
【まつもとの宝より】
戸田氏の松本における菩提寺(ぼだいじ)は全久院で、先の戸田氏の時は中町に、後の戸田氏の時は本町の水野氏の菩提寺の春了寺跡に置かれましたが、この廟所には、その当時には寺はありませんでした。前山寺は明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の際、菩提寺の全久院とともに廃されました。しかし、廟域内には前山寺の歴代住職などの墓碑があり、廟域の西道を隔てて旧松本藩士の墓碑が多く残っています。
江戸時代の大名家の墓制を知るものとして価値の高いものです。

5. 広沢寺小笠原家墓所(こうたくじ おがさわらけ ぼしょ)

松本市里山辺5112
廣澤寺1廣澤寺2
大坂夏の陣で討ち死にした松本城主小笠原秀政・忠脩(ただなが)父子の墓所で、開山堂の後の山中にあります。
広沢寺は、信濃の国主だった小笠原氏の菩提寺として創建されました。参道入り口の門から古刹の雰囲気が漂ってきます。
廣澤寺4本堂の脇の道を上って山中に入ります。開山堂まではかなり急な山道です。
廣澤寺6開山堂の裏側にあります。
向かって右が秀政、左が忠脩の五輪塔です。なお、浅間御殿山にも小笠原貞慶(さだよし)、秀政、忠脩の墓所があります。


【松本のたからより】

元和元年(1615)の大坂夏の陣で討ち死にし、京都で火葬されました。同年8月、松本城下埋橋(うずはし)の臨済寺(後の宗玄寺)近郊において葬儀が営まれ、秀政は臨済寺に、忠脩は家臣とともに浅間大隆寺跡に建てられた法性寺墓地に葬られました。その後寛保3年(1743)3月に水害のため骨灰を現在地に移したものです。
法名は、
兩選院殿義叟宗玄大居士(秀政)
法性寺殿正甫宗中大居士(忠脩) です。秀政の法号が兩選院殿となっており、御殿山小笠原家廟所にある法号と異なっています。これは、はじめ臨済宗で後に曹洞宗に改宗し、両宗を用いたことにちなみ、後で改められたものと思われます。

6. 小笠原長時の妻子の墓(おがさわらながとき さいしのはか)

松本市中山3339金峯山保福寺
保福寺2保福寺3
松本市立考古博物館
の裏手の山道を登っていきます。かなり細い道なのでわかりにくく、道に迷ってしまいました。「小笠原長時妻子の墓があるんだよ。お参りかね。」と通りがかったおばあさんに教えてもらうことができました。
林城陥落のとき、寺に預けられた小笠原長時の妻子の墓があります。


【松本のたからより】

金峯山保福寺は、室町時代の創建と伝えられる臨済宗の寺で、江戸時代の書物では「重玉松(しげたまのまつ)」とよばれた立派な松(江戸時代の末に植えられた2代目)があります。
保福寺5保福寺4

高遠出身の江戸時代の有名な石工である孫右衛門作の灯籠がありました。
【参照 松本のたから】