松本城下町武士の家「長野県宝 橋倉家住宅」見学に行きました!
松本市で武家屋敷で保存されているのは、博物館指定されている「高橋家住宅」とここ長野県宝「橋倉家住宅」があります。
橋倉家住宅は、平成13年に松本市に寄贈されるまでは、普通に生活していました。まだ一般公開されていない橋倉家住宅を今回文化財課の方の案内で見学させて頂きました。
橋倉家住宅は、江戸時代には「東ノ丁」とよばれた松本城下町の東北に位置し、一帯は武士の居住地区でした。屋敷の規模は、間口約7.5間、奥行約11間です。
橋倉家は古くは水野家に仕え、後に戸田家に仕えた武士の家です。現存する母屋は、隣家からの延焼で焼失した後に再建されたものと伝えられますが、建築年代にかかわる資料や伝承はありません。
間取りは、武家住宅の典型的な形式を示すもので、大戸口を入ると土間があり、それに沿って六畳(主人の書斎兼応接間)、中の間(八畳)、勝手(八畳)が並び、奥に上座敷(一〇畳)、下座敷(八畳)、納戸(四畳)があります。また、二階には床の間のついた六畳が設けられ、母屋の後方には渡り廊下で連結した別棟の便所があります。内部をみると長押や上座敷以外の天井の省略など藩庁の厳しい規制をうかがわせますが、一方造作は念入りで材料も立派なものが使われています。
この住宅は、若干の改造はあるにしても、江戸時代の武家住宅の形式を良好に保持し、保存状態も良好です。なお、平成14年に建物が松本市に寄附されています。
橋倉家住宅外観
言われなければ、普通の住宅に見えます。
橋倉家住宅は、改築・増築の痕跡は見られるものの、江戸時代の武家住宅の景色をよく残している建築です。こうしたことから、昭和51年(1976)3月29日に長野県宝に指定されました。
現在の旭町1丁目は、江戸時代には「東ノ丁」とよばれた松本城下町の東北に位置し、一帯は武士の居住地区でした。
この辺りの住宅はその名残りをとどめている家が比較的多い。その中でも橋倉家住宅は、江戸時代の景観を良好に残している住宅である。(出典:文化財の知識シリーズ第3集)
古地図で見ると、北の「安原十王堂跡」よりも北にあります。安原十王堂跡地にある説明看板を読むと、松本城を築城した石川氏により城下町の北の入口に十王堂が置かれました。
その後萩町が造られ城下町宇は拡大しましたが、十王堂は当時のままです。と書かれていますので、比較的新しい地区ということです。
入口
玄関ドアがどこにあるのか前を端まで行ってみました。茶色い倉庫のドアのような引き戸が入口でした。
中に入ると土間になっています。
入ってすぐの畳の部屋は、六畳間で主人の書斎兼応接間として使われていました。
中の間(八畳)、勝手(八畳)が並んでいます。
パンフレットに江戸時代の間取りと現在の間取り図が示されています。
後世に改修された後もありますが、かつての様子をよく残してあるのがわかります。
襖を開けると階段があります。隠し階段のような造りです。
狭くて急な階段で、2階の電気のスイッチは、2階に上がった奥にあるそうなので、今回は昇るのは控えました。
かみざしき
かみざしきは、とても天井が高く、住宅全体も豪華に作られています。当時豪勢に造られたことでお上に怒られたという記述も残っているそうです。
橋倉家は古くは水野家に仕え、後に戸田家に仕えた武士の家です。六石の下級武士でした。
一緒に見学した方々の感想を伺うと、
天井が高く想像したよりも大きな住宅で驚いた。落ち付いた雰囲気でテレワークなどにも使いたい。
今後手を入れて当時の暮らしぶりがわかるようになるといい。
県宝に指定されたポイントや基準が知りたい。→以前より長野県に問い合わせ中でまだ返事が来ていないそうです。
どま
玄関の奥に土間があります。
おかって
土間から繋がっているので、昔はここも土間だったかもしれません。
廊下を渡ると、かつての外にある厠に繋がります。
玄関~六畳間の先にある小スペースです。窓のところに板を取り付け棚か机にして使われていたのでしょうか。
前庭の紫陽花
小部屋から廊下がありその先は、後世に作られたトイレがあります。
中庭
橋倉家住宅は、安原地区公民館に鍵が預けられていてお庭のお手入れなど地区の方でされています。お花が植えられています。
渡り廊下
母屋から渡り廊下
厠
大小と2つあります。
辻井戸
玄関横の路上に辻井戸があります。現在は蓋がされています。蓋を開けて中を覗いてみます。
松本の城下町は北に高く南に低い扇状地上にあり、したがって、女鳥羽付近には地下水が自噴している井戸が多かったが、北に行くほど地下水面は深くなり井戸によって生活用水を得る必要がありました。そこで、藩は公費で辻井戸を掘りこれを武家に共同で使用させました。「享保十二年秋改松本城下絵図」で橋倉家の横に辻井戸が描かれています。「享保十二年秋改図」には後の張り紙があり、「嘉永二年東安原ひがしやすはら類焼」とあり、この辺が焼失したので「地割じわり直なおし」とあります。橋倉与兵衛の名前と間口 6 尺 3 寸・奥行 8 間 5尺の橋倉家屋敷が記載されているので、橋倉家は嘉永3年以後建築されたものと推定されます。
(出典:城下町探訪)
今後松本市文化財課では、長野県宝橋倉家住宅の保存に加え、活用も考えています。
8月の広報まつもとに松本市文化財課主催の「橋倉家住宅一般公開」の案内が掲載される予定です。お楽しみに♪