天使はずっと見守っていたわけじゃなかった「国宝旧開智学校校舎と立石清重」
国宝旧開智学校校舎
校舎の沿革
旧開智学校は明治6年(1873)5月6日、筑摩県学を改め学制による小学校として、廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を仮の校舎として開校しました。新校舎は明治9年4月に女鳥羽川沿いの全久院跡(廃仏毀釈で廃寺)に竣工されました。その後90年近く使用され、昭和36年(1961)に重要文化財に指定され、同38年1月から翌年8月にかけて、現地に移築されました。
巨額な建築費
開智学校の工事費は、当時のお金で1万1千余円の巨額なもので、およそ7割を地域の人々が負担し、残り3割は特殊寄附金及び廃寺をとりこわした古材受払金などで調達しました。その後、校舎はなんども水害などの被害にあいましたが、児童や教員、地域の人々に大切に守られ続けました。
令和元年(2019)、近代学校建築として初めて国宝に指定されました。
令和3年6月より耐震補強工事のために、令和6年秋ごろまで休館となります。しばらくは入れないため、休館前に訪問しました。
立石清重 文政12年(1829)~明治27年(1894)
旧開智学校校舎を設計・施工した立石清重
旧開智学校校舎を設計・施工した立石清重は、松本で代々大工を務めていた家の次男として誕生しました。父清三郎の跡を継いで大工となり、松本城の御普請や多くの住宅を手がけるなど、江戸時代から地域の棟梁として活躍していました。
明治時代になると、立石は、独学で学んだ擬洋風建築を松本に根付かせていきます。明治時代だけでも、立石が手がけた建築は100件以上確認できます。官公庁舎や学校は擬洋風建築が多くみられますが、個人の住宅などは和風のものも手がけていました。立石は、施主の希望に沿いながら、自らの和風と洋風の技術を間断なく発揮していたと言えます。数々の大作を手がけた高い技術力と、その仕事ぶりが詳細がわかる建築帳面を豊富に残したことから、明治前期の日本を代表する大工棟梁と評されています。
残された立石清重の意匠メモ
擬洋風建築解説パネル
和風と洋風を色分けしてわかりやすく解説したパネルが展示されています。
飾りとしてのバルコニー
白い漆喰壁に灰を混ぜた灰色漆喰を塗り重ねた壁
西洋建築で外壁隅を補強するためのコーナーストーンを表現
さて中に入ってみます。現在コロナウィルス感染予防のため入館人数制限しています。60名以上になった場合は制限するそうです。
1階 扉
開け放れた美しい意匠が施された扉の向こうに木製の廊下が伸びています。
第1展示室(小便所)
当時の瓦と東西南北の指標が展示されています。
廻り階段
●丸太柱 みどころ●
大きな柱は、開智学校の場所があった全久院のケヤキの古材を転用した柱で、約140年校舎を支えています。
廻り階段のデザインは、くるっと回り込んでいて昇ってみたくなり、とても魅力的です。
特別展示室 模型展示
移築されたのは、正面の東側のみで、女鳥羽川に面した部分は移築されなかったようです。
保存か建替えか
このパネルを読むと、改築、増築が行われていたようで、移築されたのは建設当初の本館のみだったようです。
廊下
●豆知識● 公式サイトより↓
旧開智学校校舎は、明治初期の学校校舎としては非常に機能的に造られています。明治5年(1872)に発布された、近代的な学校制度を定めた学制のもとでは、学校の校舎は「務メテ完全ヲ期ス」ことが求められましたが、細かい規定・規格などはありませんでした。学校校舎の規格が国によって固まるのは、明治30年前後のことです。明治初期は、小学校校舎の7割近くが寺院や空き家の転用と言われており、そもそも学校としての用をなさない校舎がほとんどでしたが、新築された場合でも廊下が無かったり、部屋が狭かったり、サイズがバラバラだったりと、校舎として不都合が目立つものが多くありました。
こうした時代に旧開智学校校舎は、中廊下によって各教室を独立させ、全部で32部屋もあった教室を当時としては広めの3間×4間というサイズで統一しました。中廊下のため日当たりの悪くなる場所もありましたが、子どもたちの勉強する教室をなるべく南側に配置するなど、計画面で建物の不備を解消しようとした動きも見受けられます。
旧開智学校校舎は、学校に対する理解が深まっていない当時としては、非常に高い完成度を誇る校舎と評価されています。学制で示された当時の教育環境の理想形を示す校舎としても価値が高いといわれ、近代教育の黎明期を象徴する校舎としての評価を得ています。(公式サイトより)
教室
2枚の写真
さて、今回のタイトルに書きました「天使はずっと見守っていたわけじゃなかった。」の謎を解き明かしたいと思います。
先ずはこの2枚の写真をご覧ください。
上の写真は、明治25年頃の開智学校です。下は、昭和38年のものです。
天使のいる創建当時の写真
最後にあった校舎 昭和38年 天使も竜も施されていませんでした。
❔ なぜ明治30年の建替えで竜と天使は消えてしまったのでしょうか?
学芸員遠藤さんに教えてもらいました。
明治30年頃は日本は日清戦争に向かい、近代国家の仲間入りが出来たという思いが強くなり、キチンとした西洋建築にしたいという思いや、学校は質素堅牢にという国の方針から、天使や竜は浮かれたデザインに見られて排除したのかもしれません。
天使のデザインを入れたのは、設計者の立石清重さんの独創性がもっとも発揮された装飾でした。明治27年に立石清重さんがお亡くなりになられたことで、あまり気を使わなくてもよくなったのではないかと思います。
2枚の設計図
移築に伴うための復元図面も2種類用意されていました。
創建当時の復元図面
昭和30年代の復元図面
最終的に昭和38年(1963)からの移築修理工事で創建当時の校舎に復元されました。
立石清重の独創性が発揮された「天使の装飾」
展示パネルの解説によると「旧開智学校で一際異彩を放っているのが天使の看板です。ほかの擬洋風建築で見ることが出来ない、立石の独創性が最も発揮された装飾です。このデザインの元は当時東京で発行されていた「東京日々新聞」の題字とされています。
2019年の展示の写真です。
天使は、国宝旧開智学校校舎のキャラクターとして親しまれています。
2階へ昇る階段が美しい
長年使用されているため、よく歩く端はすり減り真ん中が少し高くなっています。
最初に載せた廻り階段もそうですが、当時の階段はとても美しいです。
2階
桟唐戸●みどころ●
彫刻のついた桟唐戸は、校舎の中に8面あります。この場所(講堂前)の桟唐戸は1番古いものです。
近くにあった浄林寺から転用された扉です。当時の職人の優れた技術が垣間みえます。
木彫師の原田蒼渓の作
飛龍
立浪
木目ぬり ●みどころ●
この扉に出ている木目は、実はペンキで描かれた木目です。
色ガラスが施された講堂
●八角塔屋 みどころ●
明治初頭に建設された日本の洋風建築には必ずといっていいほど塔がついています。塔屋は当時の西洋建築のシンボルです。この扉の先を登っていくと、大きな鐘がぶら下がった塔屋に出ます。その鐘で授業の始まりなどを知らせていました。
数年前まで1年に一度博物館の日に一般公開されていました。現在は立ち入り出来ません。
不思議なドア
入れない場所にあるドアの名残です。
立石清重の才能が存分に発揮された今では考えられないような贅沢な学校です。それも市民の寄付により実現出来たこと、守られたことは、松本市民の誇る旧開智学校校舎の所以でしょう。書ききれないほど、何度訪れても新しい発見がある「国宝旧開智学校校舎」です。
令和3年6月から3年ほどかけて旧開智学校校舎の耐震工事を行います。(令和6年秋に開館予定。)
工事中は休館となります。皆様にご不便をおかけしますがご理解とご協力をお願いいたします。休館中は、隣接する県宝旧司祭館で旧開智学校校舎の紹介展示や旧開智学校ミュージアムショップの営業など、ご来館いただく皆様に楽しんでいただける工夫を検討しておりますが、工期を含め、詳しい情報は決まり次第更新させていただきます。
はしごチケットサービスで旧開智学校校舎のクリアファイルを頂きました。
はしごマップスタンプラリーも31軒目でした。
今回の取材は、令和3年5月11日におこないました。国宝旧開智学校校舎学芸員の遠藤さんに1階を案内して頂きました。
前編「開智学校と地震」国宝旧開智学校校舎企画展もご覧ください。