まつもと湧水巡り「女鳥羽の泉」善哉酒造の井戸 東町~鍛冶町~餌差町
東町
国道143号線を女鳥羽川にかかる大橋を超えると東町に入ります。
江戸時代善光寺街道として栄え、多くの旅籠屋が並ぶ宿場町として栄えました。戦中は歩兵第50連隊の誘致に伴い出征兵士を送り迎えるなど華やかな町でした。
山家小路(やまべこうじ)
東町の成り立ちは天正十五年(一五八七)と 伝えられ 三丁目の区分は大正三年四月である。山家小路の名称は慶長十八年(一六一三)と記録にある。信府統記に昔は紺屋町と言い、中比鍛冶町といい、今は山邊小路というとある。山辺への出口の町である。
鍛冶町
町人町・東町の南端から山家組へ通じる枝町名。「信府統記」には「家数二十七軒、町幅三間。昔ハ紺街トモ云ヒ、中比鍛冶町と云ヒ、今ハ山家小路ト云フ」とある。享保年代ころには、山家小路と呼ばれていたが、江戸時代後期には鍛冶町の名称が定着した。
かつては、鍛冶職人が住んでいてそれが町名の由来になったと言われています。
田楽木曽屋
明治20年創業。古民家の店内には松本民芸家具が並んでいます。田楽や鯉の甘煮などの郷土料理が食べられます。
旧松岡医院 かわかみ建築設計室
建物は、大正14年(1925年)に建てられ、国の重要文化財・旧開智学校を建てた棟梁(とうりょう)・立石清重の弟子に当たる地元の佐野貞 治郎が棟梁として仕切った。昭和の終わりには閉院した旧松岡病院を、平成7(1995)年に再生しています。
外観は、石造りに似せた洗い出しになってレリーフが美しいです。
餌差町へ
真っ直ぐ行くと裏町通り、右に曲がると餌差町
旧町名「餌差町」
餌差町は城下町の東の出入り口に当り、町の東側には木戸と十王堂が置かれ、町番が木戸を守っていた。百姓や町人はこの木戸からの乗馬は認められなかった。町名はここに藩主の鷹の餌(小鳥)を差し出す役目の「餌差」を置いたことに由来するという。
女鳥羽の泉
餌差町の中ほどにある善哉酒造前にある井戸です。
善哉酒造の敷地内地下30Mから自噴している湧水です。
この名を冠した「女鳥羽の泉」という日本酒も評判です。
近所の人や、穂高酒店の駐車場に車を停めて水を汲みに来る人も多く見受けられる人気の井戸です。
穂高酒店
善哉酒造さんが経営する酒屋さんです。利き酒のサービスもあるのかもしれません。
最近新しいお店が増えています。
善哉さんの対面には、新しいお店が出来ていました。ゲストハウスです。
山山食堂(さんさんしょくどう)
隣にはモーニングが人気の食堂もあります。
明治時代に建てられた土蔵を改修した建物で、1階は食堂、2階は「栞日分室」ギャラリーになっています。
十王堂
江戸時代まちの東の外れに位置していたので、東の十王堂があります。
餌差町十王堂の諸仏(松本市文化財課HPより)
睨みを利かし城下を護る
十王堂は、江戸時代には各村々の入口や中心地に建立して、疫病や災害や悪戯者などが村に入らないように保護をしてもらうことを願ったといいます。松本城下では、藩主水野忠職が慶安5年(1652)8月に公布した法度に次の規定があります。
◎在より松本へ罷り出候刻、ばくろう町木戸きわ、伊勢町の木戸・安原の一里山・清水村の川端より馬乗り申しまじく候 、たとえ道中にて旅人に会い申し候共、奉公人と見申し候得は、一丁前より下馬仕り、不礼致し申し間敷く候。
この法度の規定は度々公布されています。ここから分かることは、十王堂は城下と在(城下より外の地域)との境界に置かれ、城下は特別な地域である事を示しているということです。
城下町は計画的につくられた政治的軍事的都市です。そのため一般庶民から見ればさまざまな制限があり、聖域でした。十王堂はその聖域を守る働きをもち、城下町の構成からみて非常に重要な役目を果たしていました。松本城下町は明治のはじめ、廃仏毀釈によって寺院の多くは破壊され、十王堂も廃墟と化しました。その中にあって、今日、地域の人々によって十王が祀られています。
大きな閻魔像は像高110cm、その他の十王像は像高34~39cm、奪衣婆像は像高29cm、懸衣翁像は像高41cmです。
閻魔堂
中を覗き込むと閻魔さんや他の地獄の番人象も置かれています。
2018年3月全面改訂版として新たな「まつもと水巡りマップ」を作りました。
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