2024.OMF チェロ・アンサンブル・サイトウ座談会

2024.8.25
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2024.OMF  チェロ・アンサンブル・サイトウ座談会

今年の「ふれあいコンサートⅢ」はとても豪華な顔ぶれです。齋藤秀雄没後50年、SKO40年を記念し、齋藤秀雄から薫陶を受けたチェリストからその孫弟子までの17人からなる [チェロ・アンサンブル・サイトウ]が、演奏します。

[チェロ・アンサンブル・サイトウ]は、1982年齋藤秀雄七回忌に、齋藤秀雄のチェロの直弟子たちが行った「齋藤秀雄先生を偲ぶ チェロ・グランド・コンサート」に合わせて結成されたアンサンブルで、その公演が1984年9月「齋藤秀雄メモリアルコンサート」へと繋がり、SKO発足の礎となりました。今回の座談会の話の中で、そのメモリアルコンサートの打ち上げで「征爾さんこれオーケストラもやらないか」という話に征爾(小澤征爾総監)が「そお?それ、いいねぇやろうか」って言ったとの話も飛び出しました。

今回演奏するのは、齋藤秀雄没後50年、SKO40年の節目に、当時の[チェロ・アンサンブル・サイトウ]のメンバーと孫弟子によって改めて結成されたチェロ・アンサンブルです。もうこんなことないかもしれませんね。貴重な座談会でした。
そしてコンサートを前に、直接教えを受けた皆さんから孫弟子までの17人に、それぞれの齋藤先生との思い出を語ってもらう座談会が行われました。


秋津 智承さん
先生は怖い先生だと言われていますけれど、そのとおりだった。先生の教えを受けたのは私は運よく最後の最後の方だと思います。私は広島なので遠いけれども斉藤先生等をお呼びするシステムを作ってくれてあったおかげで先生の教えを受けることができました。怒るってこともあまりなかったと思いますね。あまり強く叱られたこともなかったし毎年春にやる門下生の集まりに僕も呼ばれたこともありました。怖い先生ではあったんですけれど宴会とかそういうことも大事にされていた先生だったと思います。


堀 了介さん
ここにいらっしゃる方は小学校からずっと一緒で、岩崎さんとか安田さん、堤さん、倉田先生もそうです。同じ音楽教室で育ったんですが、僕も小学校2年の春、齋藤先生に習い始めたわけですけれど半年後にものすごい怪我をして2年間ぐらい病院通いだったので、小学校のころチェロ大っ嫌いでさらうのが辛くて。子どもだったのでなんでこんなにけがしてるのにやんなきゃいけないんかなぁって思ってましたね。
斉藤先生はすごいきびしくって、今考えると厳ししていただいいたことにすごく感謝しています。この年になってもこうして一緒にできることを幸せに思っております。


岩崎 洸
一番初めのレッスンに、僕は11歳の時だったんですが、父と一緒に行ったときに齋藤先生に「プロになるんだね」と言われてNoとも言えずに「はい!」と言ったのがすごく頭にあって初めからプレッシャーがあった。「誰さんはこのエチュードを1度でできたのにどうして君はできないの」と齋藤先生には他の生徒と常に競争させられていた。よく言われる小澤さんとか先輩たちが池を逃げ回ったというようなことは僕の時代にはなくて、そういう怖さはありませんが。音楽的なことでは先生は「言葉っていうのは人に通じさせるものである。演奏する以上それを一音一音言葉のように話さないと人に通じない。演劇で話すように大げさに話さないと通じない」、1音がそういうことだと今も生徒に教えています。


苅田 雅治さん
私は直接齋藤先生に習ったわけではないですけれど、齋藤先生の生徒さんだった井上頼豊先生に習った。私が一番怒られたのはなぜか高校2年の時に室内楽になりなさいと言われて、いろんな曲聴いてこれかっこいいですってショスタコービッチの1番かなんかのカルテット持ってったら、「バカ野郎」って言われて、それとオーケストラの時間にベートーベンの4番だったかな、北本さんと隣で弾いていて、一番前でスタンド使っていたんですね、動かないで弾いてたら一番前に座ってるとそれじゃだめだと言われて。私が大学4年の時に先生亡くなられたんですけど、3年の時に見てあげるよと言われたんですが体調悪くなられて、本当に怖い先生というよりニコッと笑うときには非常に穏やかな顔の先生だなという印象でした。


木越 洋さん
齋藤先生は恐ろしく勝手な人なんですよね。怖いっていうよりは日本を救うためなんだから俺は忙しい、一日中音楽のことに没頭していて、ラーメン屋でも私は忙しいんだから他の客はほっといて私に一番最初に出しなさいとかでたらめ言うわけですよ。学校に来るとき先生おっきいアメリカの車に乗るのがご趣味で狭い道をトラックと行き違いできなくて喧嘩になったりとか、とにかく勝手な人なんですよ。ただ、政治的なことは一切知らないんだけれども、心を教えるというよりは心を伝えるためのスタイルを学びなさいと言っていただいてました。


北本 秀樹
私が齋藤先生に習った年代というのは私が15歳から高校1年の時から20歳、齋藤先生が62歳の時から72歳の時まで習ったわけなんですが、私も斎藤先生の直属の生徒というわけではなくてそのツールを受けたということなんですが、あんまり怒られたことなんかないんですよ。山崎さんに言うと「北さんは外様だからね」とそういうこと言われた記憶があります。室内楽とかオーケストラでとってもお世話になりました。人間として生きているのに必要なことを教えてくださったですね。高校1年の時に、オーケストラがABCDと4つあるんですね。Cオケというのが土曜日の10時半からでそれに見事遅刻しましてね、そうすると404という恐ろしい部屋がありましてね、齋藤先生の部屋ってのがあるんですね。そこにまず呼ばれるわけですよ。「おい、北本、君たちどうしたんだ」「寝坊しました」「お、正直でよろしい」でもその先は大事だなあと思ったことがあって、「遅刻っていうのは人間だからexcuseですることもあるだろう、でもそれを癖にしちゃだめだ」とおっしゃられて。そのあと403という合奏室に行くと、みんな待ってるんですよ、音出さないで。それで、式台に上にたって、「ごめんなさい」って謝るんですよ。
あとバッハのシャコンヌで怒られたこと覚えてて「ボケなす!」と言われたんですね。
よく先輩たちからは灰皿を投げられたとかメガネ飛んできたとか噂もありました。


倉田澄子さん
私は11歳の時、堤親子と私の母と湘南電車に乗って斎藤先生にご挨拶に行ったりしたんです。父を早くなくして母は父がチェロで体を壊して亡くなったと思っていたのでチェロやることに反対でお断りするはずが、音階弾いてみなさいと言われて、それを聞いた先生が、「5年預かります」とおっしゃった。「5年でものになるかわかります」と言われたので母もお断りできずに始めた。そのころは剛さんは8歳で天才少年でリサイタルなんかしてた頃。もう一つエピソードを。湘南の鵠沼海岸に住んでいて安田さんも住んでいて、岩崎洸ちゃんと3人のチェロトリオをするからレッスンをしようとおっしゃって、聞きに来ていただいた。そのあとお正月だから遊ぼうと、先生は遊ぶのが大好きで、あとから剛君と洸ちゃんのお姉さんのしゅくさんがいらっしゃって、かるただか、ばば抜きだったか、必死で童心に返って楽しそうに無邪気にみんな齋藤先生もギャーギャー言ってる写真が断捨離で出てきました。遊ぶときはすごく遊びなさいとっおっしゃって、小澤さんも遊ぶ日があると、ガラス細工作ったり、野球とかやってるのを見ると遊ぶことに一生懸命でした。それが素晴らしいなって思って遊ぶマネできてるかもしれない。
ピンクのアメ車を乗ってらしてみんなで陰で「ピンク爺さん」って言ってたわね。


松波 恵子
私は高校から桐朋学園に入って、齋藤先生に教えてもらった。何が違うのかというと徹底ですね。何をやるにも徹底的にやることを叩き込まれた。音程一つにしても指の動く範囲0.5ミリ以下でもダメみたいな感じで、それがきちんとできるまで。あるいは曲の勉強を持って行ってもレッスンで1小節進むのに300分くらいかかったりとかそれより先に進めなかったりとか、とにかく徹底的にできるまでやらなければいけないんだということをしっかり叩き込んでいただいた。齋藤先生はね女性には甘かったように思います。ある日、自宅でのレッスンが終わって学校へ行くから乗せてってあげると乗せてもらった。多分手に入れられてそんなにたってないときだったんで先生うれしくてしょうがなかったんですね、ご自宅の千代田区から学校へ行くのに青山通りをずっと行くんですけれども、当時はまだ多くなくてビュンビュン走って、どうだって顔してたんですけれど、そしたら警官に止められてしまったんです。警官が運転台のところへきてすごいお爺さんが運転してるんでびっくりして、そのままスルーさしていただいたと思う。まだそんな時代でした。


堤 剛
音楽人として生きていくことを徹底的に叩き込まれたという気がしています。厳しかったし遊びも大好きだったし、その時は理解できなかったのが、後になって、あれはそういう意味だったのかと、今でも教えているんですが「齋藤先生の受け売りなんだけどね」と活かせていただけることが光栄だったしと思う。
私がベルリンに田中路子さんという方がいて訪ねた時に紹介状を書いていただいて尋ねたわけですが、それまで齋藤先生は怖いし神様的なところもあったんですが、紹介状見せた時に「あ~ら、秀ちゃん」とおしゃった。あの怖い人が秀ちゃん?なんかすごく人間的な先生だったんだと思いました。

山下 泰資
私はずっとスイスに在住してまして今回もうれしかったんですが、私がチェロを始めたきっかけというのがまさに齋藤先生。関西のジュニアオケでヴァイオリンを弾いていて月に一回指導にいらしていた。6年か中学1年の時に「お前は図体でっかいからチェロやれ」と言われてうちの両親は「この子は食べれるようになりますか」「僕の言う通りやったら食えるようにしてやる」それで自分の両親も即決。先生はレッスンが厳しかったのはそうなんですけどいつも近くにいてくださった。厳しさだけでなく、自分のことを考えてくださっているんだなというのを感じられる厳しさだった。例えば、ゴルターマンの4番のコンチェルトで行ったときに最初の1小節で家に帰されたんですね。「なにさらってきた、その音程は何だ」と言われて。そしてその次の時に行ったら「なんでそれを最初にやらなかった」とまたおこられた。教育者としての姿勢を自分も教えるようになって僕も自分のためになったと感じます。


安田 謙一郎
とても懐かしい。僕は堤さんや倉田さんと同じ湘南に住んでいまして、齋藤先生がいろいろ考えてくださって、土曜日に音楽教室に小学校休んでレッスンに来なさいといって、そのころ小学校の先生がとても理解があって、土曜日学校休んでいいとおっしゃって、齋藤先生のレッスンを午前中に受けて厳しいところもあれば小学生には難しい詩の話をされてちんぷんかんぷんだったこともあったんですが。
先生のお宅から学校までがまた遠かった、立派なアメリカ車に幅の広い車で先生の隣に30~40分くらい乗せてもらって、小学生じゃ話もないし、ラジオをつけられて落語を聞きながら、大声でハハハハと笑いながら運転しているというそのギャップといいますか、その時間はとても貴重だったと思います。


山本 裕康
僕は齋藤先生にお会いしたこともない世代、諸先生方、僕たちが学生の頃に試験にもコンクールに必ずいらっしゃった方々で祖の先生方をお育てになったというすごさを感じる。僕らにとっては伝説の人、本は読みましたし、先生方からのエピソードをいっぱい聞かされましたし、自分の中でのイメージはあるんですが、もっと若い方に伝えなきゃいけないと思いました。工藤さんと話してたんですがここの先生方ってレジェンドというより神々って感じで、その神話の中にぼくら迷い込んだなって話しをしてました。この神話が齋藤先生の壮大な物語をだれかオペラを作曲して100年後200年後のSKFが演奏すればいいなと思います。
ここに参加できたことを 誇りに思いますしすごく幸せに思います。


古川 展生
私は直接齋藤先生と関わったことはないんですが、齋藤先生の教えをほとんどの方にレッスンを受けていろいろ教えていただいて直接はお会いしたことはないんですけれど齋藤先生の教えを皆様を通して受けてきたなと。齋藤先生のすごさって、イメージでしかないんですけれども、こういう壮大なコミュニティをずっと作って前に進んでいる最初の方だった、このチェロアンサンブルもそうですしこのフェスティバルもそうですし、世界的に見てもほとんどいらっしゃらないんじゃないか、齋藤先生がいらっしゃらなかったら日本の音楽史も違ったんではないかと思うと改めてすごい方だと思った中で、こうやって今日もこの素晴らしいコンサートに参加できてうれしく光栄に思っています。


工藤 すみれ
私は井上頼豊先生に6歳のころから先生が亡くなるまで師事していた。井上先生もよく齋藤先生の話をよくしていて、井上先生は私が弾いているとフフッフフッと笑っちゃうんですけど、「僕が笑っているのは齋藤先生みたいに怒って早く死なないためだから」とよくいわれていた。そうなんだそんなに怒られていたんだと思って。一番心に残っているのは、テクニカルなことも素晴らしかったけれども、演奏するときにこころで歌えといつも言っていた。教えが小澤先生にも伝わっていると思ったて、SKOもそうだけど今も伝わっているんだと感じた。これからも伝承していってこのふぇすがますます発展していくことを願っている。 この場で神々の先生方と演奏できるのを楽しみにしている。


髙木 慶太
ぼくも斎藤先生を直接存じ上げない、僕は高校から桐朋にいるんですけれども斎藤先生は銅像でしか知らない、いつも齋藤先生の銅像の前で練習したりしていました。オーケストラで僕たちの世代でも受け継がれているものがあって、僕の高校3年の時に1人来られない生徒がいて、その生徒一人を30分くらい 先生がこれは桐朋の伝統だからいじめるわけではないんだけど、遅刻をすることはよくない事だからその生徒が来るまで始まるのを待っていましょうと言われてえーッと思っていた。齋藤先生を尊敬されてその思い出の中で齋藤先生を慕って僕たちにいろいろと教えてくださっているんだなと思うと一度お会いしてみたかったなと思っています。チェロ・アンサンブル・サイトウはぼくは中学校の時にCDでしか聞いたことなかったので、思ってもいなかったのでとても感謝していますし頑張っていきたいと思います。


伊藤 悠貴
今回は最年少メンバーとして信じられないような参加させていただくことを感謝しています。齋藤先生の話は小学校・中学校を通じて倉田先生からお聞きしていて、倉田先生が齋藤先生のレッスンを受けるのに必ず5分前にトントンしなければいけない。6分前でもだめだし4分前でもダメだと。10分前についたら少し外に出て公園をお散歩してと聞いて小学校低学年の時でそこまできびしいのかと思った。5歳からヴァイオリンをやっていましたが立っているのが嫌でチェロは座るのでじゃあチェロをやりなさいということになって、立ってやるのやだなんて齋藤先生に言ったらやばかったんじゃないかなと思いながら、皆さんそう言う時代を生き抜いたんだなと思いました。僕は齋藤先生にお会いしたことはないですけれども伝えていかなければと思いました。さっきピンクのアメ車の話ありましたが僕もシボレーのカマロとかすごい好きでまだそういう車に乗るくらいじゃないんですけれど、いつか黄色いカマロで黒い線の入ったバンブルビーにチェロをのせて、僕も青山通りを走ってみたいと思います。


宮田 大
僕は倉田先生に教わっていたんですが、カフェ澄子という時間があって、いろんなことを聞いてくださってそれからレッスンした。すごく近くにいてくださるってことを受け継がれていると思いました。今使っているチェロの一つ前のチェロが齋藤先生が使っていた楽器を10年くらい使わせていただいていたんですけど、祖のチェロで小澤先生と演奏させていただくと「わぁこれ齋藤先生の音がするなぁ」と楽器に齋藤先生の音がしみ込んでいて、音だけでなくて齋藤先生よくタバコを吸言いながらレッスンされていたそう楽器の横あたりにたばこのヤニがしみ込んでいたり、いろんなエピソードを聞くとF字溝にたばこの吸い殻を入れていたとか、楽器を通して齋藤先生感じていた。
チェロは人間の声に一番似ていると言われていて、先生方の音が語り掛けるように演奏されているので皆さんの言葉で発せられるものとチェロアンサンブルを楽しませていただければと思います。