立石清重の2つの蔵 はかり資料館「旧三松屋蔵屋敷」
はかり資料館の第3展示室「旧三松屋蔵屋敷」は、国宝旧開智学校校舎休館を設計施工した立石清重氏が手がけたものです。
先日の旧開智学校校舎の記事でも触れたように、明治初頭に数多く松本の建物を作った功績は現代も旧開智学校校舎を始め語り継がれています。
残念ながら、ほとんど壊されてしまいはかり資料館に移築された「旧三松屋蔵屋敷」はその功績を語る上でもとても大切なものかと思います。
はかり資料館の敷地の裏に老舗の材木問屋「三松屋」の蔵座敷があります。
当時の当主4代目三原九馬三郎(くまさぶろう)建物の設計施工は、立石清重 明治29年に竣工
立石最晩年の建物である旧三松屋蔵屋敷は、近代の伝統と近代の意匠を巧みに採り入れて建てられた貴重な歴史的建造物です。
平成13年(2001)に三原家7代目当主の三原彰氏により松本市が寄贈を受け、蔵の町・中町に移築し、はかり資料館の施設「旧三松屋蔵屋敷」として、平成23年から公開しています。
三松屋材木店
建物の外部は、漆喰壁の保護のため、取外し可能な下見板に覆われ、三角形の破風には、唐草模様の木彫レリーフが装飾されています。ガラスやトタンといった、当時まだ」高級であった部材を使うなど、細部にまでこだわりをもってつくられています。
1階
1階は玄関・寄付・数寄屋造りのやや変則的な茶室・和室2間です。
当主の三原九馬三郎は、客人をもてなす蔵座敷として使用していました。
旧三松屋蔵屋敷 平面図
一般に「蔵」といえば和風の建物の代名詞としてイメージされますが、この建物は、とてもモダンな雰囲気をもっています。蔵造りの堅牢な作りの中に、ゆるい曲線を使ったデザインとなっています。
2階の洋間は、立ち上がりの高い上げ下げ式ガラス窓、天井のランプ吊りに描かれたモダンな唐草模様、床板に使われている丸釘、当時、天井は5重の紙張り、ケヤキの重厚な額縁にカーテンボックスを付け、厚手の白いブラインドが付けられていました。
立石清重の2つの蔵
昨年(2020年)10月に工芸の五月「建築家と巡るみずのタイムトラベル防災遍」に参加した時に、
旧三松屋蔵屋敷と偶然にも並ぶ蔵の話を伺いました。
建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災編 第3章飯田町~中町はかり資料館裏まで
旧三松屋蔵屋敷
材木問屋の三松屋の旭町にあった土蔵をここに移築。擬洋風の建物、壁のシックイを下見板張りで覆ている。
旧開智学校を手掛けた立石清重が明治27年に建てたもの。立石清重はこの年に65歳で亡くなっていますので、最晩年の集大成の建物。
シックイ塗の土蔵作りは大火が相次いだこの時代に火災から建物や家財を守り燃えにくくする効果があった。
下見板は雨風からシックイを保護するためのもので、交換やメンテナンスができるようになっている。
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北側に見える飯森さんの土蔵も立石清重が手掛けたもので、明治6年に建設され、その後明治9年に開智学校ができていることから、
開智学校の建設準備の時に建てられた土蔵。
度々起こった水害対策のため、基礎の内側に砂利や小石を敷き込み水害が起こっても基礎石がずれないように工夫されています。
飯森家はでこのあたりの大地主さんで御用商人として栄えていたため、建築資金も潤沢で土蔵の壁も通常より厚く塗られ火災にも強く、
明治21年の極楽寺の大火でこのあたり一帯が燃えたにもかかわらず、この土蔵は燃え残り「焼けずの蔵」になったということが、飯森家に代々伝えられているそうです。
三松屋の土蔵が移築されたことで、明治6年の飯森家の土蔵と明治27年の三松屋が、120年余りの時を超え、立石建築が2棟となり同士に立っているのも何とも不思議な縁ですね。