建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災遍 第2章 旧山崎歯科~信毎メディアガーデン

2020.10.23
60
建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災遍 第2章 旧山崎歯科~信毎メディアガーデン

10月17日・18日2日間 秋の工芸の五月「建築家と巡るみずのタイムトラベル」が開催されました。

本来ならば、毎年5月に行われていますが今年はコロナ禍で中止となり、秋に行われることになりました。

今回はコロナ渦中に合わせテーマは「防災編」、松本城下での水害・火災・地震・疫病・飢饉などの記録を辿るタイムトラベルです。

3時間のツアーの予定が4時間になり内容も深いので5回に分けて投稿します。
その2回目です。1回目の記事は、こちらです。

旧山崎歯科

明治 21 年に建てられたイギリス積みの煉瓦造建築で、当時としてはとても新しい積み方で建てられています。

当時の松本市は松本大火で街が消失しましたが火事に強い街を作ろうと

小屋梁の墨書き「明治二十一年八月吉日 建築 丸山善太郎 大工 飯田重吉 煉瓦積酒井為吉」とあり、煉瓦積職人の名前を残していることから、煉瓦商が煉瓦を売り広めるためのモデルハウスとして建てた可能性もあるとされています。
珍しいレンガでモデル住宅が建てられました。

松本市で初めて国の「登録有形文化財」に指定された建物でした。

長野県の登録有形文化財(建築物)第1号です。

旧山崎歯科

平成23年(2011年)の松本地震で各地で被害が出ました。ここ山崎歯科も築122 年が経過して、地震の被害に遭い1部が崩れました。今回の案内人の建築家の皆さんも関わり保存する「赤レンガの旧山崎歯科医院を残す会」も発足され、保存運動も起こりましたが、残念ながら取り壊されてしまいました。

旧山崎歯科

レンガの説明

当時の技法はまだ未熟で、先にレンガを積んで、その中に木造建築を入れたので、地震でユラユラ揺れたら中の木造が外に飛び出してしまったのが、壊れた原因だったことを手描きの絵入りでわかりやすく説明して頂きました。

旧山崎歯科

ホテル花月の敷地から総掘りの水が流れる水路に降ります。

花月から階段を下るここまで暗渠の中を流れてきた水が僅かな時間におひさまの下を流れます。

総掘りの水路

2019年5月火災の跡

駐車場の場所は、2019年5月に火災が発生した店舗跡です。結局再建されず壊され駐車場になりました。

緑町の狭い路地から見ていたパン屋さんでしたが、空き地の向こうから初めて見ましたが、こんな大きなビルだったことに驚きました。

火災の跡

 

みどり食堂

辰巳の庭 みどり食堂準備中 庭にテーブルと椅子を置いてテーブルに貼ってあるメニューを見てお店に電話で注文します。
緑町周辺の14店の味を楽しめます。
アウトドアのフードコートです。今後の開催日は、11月1日・15日・29です。

街場のえんがわ作戦

緑食堂

辰巳の庭

疫病の話 戸田光恒が隠居するために建てた御殿跡の庭です。

このあたりには「辰巳御殿」があり江戸時代最後の松本城主戸田氏の戸田光則(とだみつひさ)の父親の第8代当主の戸田光庸(みつつね)が、わずか9年間の政治の後、隠居生活を送っていました。江戸時代にも何度か疫病による被害があり、このころの疫病は「はしか」、「狂犬病」、中国から入ってきた「コレラ」があり,特に「コレラ」はコロリと死に至るということで「コロリ」とも称されていた。
1858年には全国で流行して江戸でも10万人とも23万人以上とも言われる死者が出たそうです。
1862年にはあまりにも大変なことが起こっているということで、藩よりお達しが出て陽気にして祭りをして騒いでいればコロリも寄ってこないだろうということで、松本でも「村々の社地など広い場所に集まり酒を飲んでにぎやかに踊りなどして、うつ気を発散することが
病気を治療するのに必要なこと」といわれて町内に旗を立てたり、門松やしめ飾りをして祭りをしたそうです。
その祭りをこの「辰巳御殿」から隠居している戸田光庸が見物していたといわれております。
 この錦絵はコレラの病原菌の怪獣として描かれた錦絵ですが、コレラはもともとインドの伝染病で、ヨーロッパからアジアなどの交通が盛んになったころから世界で流行するようになり、
日本でも幕末から明治にかけて度々流行し「コロリ」を「虎狼痢」と当て字をしていたとのこと。
辰巳の庭
■もっと詳しく
文久2年(1862年)松本でのコレラの流行     

コレラは症状の急な激しい下痢と脱水症状を伴うため、手当が遅れると60から70%の高さの致死率とされ、その急な激しい症状は一日に千里を走るとされた虎のイメージをもって受けとめられたようです。
錦絵
「虎烈刺」「虎列拉」「虎列刺」などの漢字が当てられ、この錦絵では(頭が虎)(胴体が狼)(睾丸が狸)とされています。
また『コロリと死ね』から虎狼痢との説もあります。
この年の夏にはコレラが松本に万延しました。松本藩では『村々の社地などの広い場所に集まり、酒を飲み賑やかに踊りなどして、うっ気を発散することが病気を治療する上で大事な事である』という今では考えられないお触れを出しました。松本町では8月11日岡宮神社と宮村大明神においては神事が行われた後、俄(ニワカ)や狂言・俄(ニワカ)ねりだしをして町中を踊り廻った。町屋では幟(ノボリ)を立て、門松にしめ飾りをし、門ごとに灯籠(とうろう)をつけた。13日~15日まで松本町内では踊りや俄(ニワカ)ばやしが行われた。19日には島立の三の宮村の沙田神社で花火・狂言・角力が行われ町・在で賑やかに祭が行われたとのことです。
松本藩の人々は辰巳の庭御殿からこの様子を眺めていた様です・・・
コレラ年表

縄手通り

緑町から縄手通りに出ました。女鳥羽川沿いにある商店街です。

当時の女鳥羽川は今に比べて幅も狭く浅いでした。あまり雨が降らない松本市において昭和34年8月の台風は、かなり大量の雨が降り、みるみるうちに川から水が溢れて辺り一面水浸しになり大きな被害が出たそうです。

その後の改修工事で、川底を深く幅を広くして今の形になりました。

昭和34年8月台風

1958年(昭和34年)8月の台風は降雨量が多く、女鳥羽川が増水しました。その時の写真です。

そして今回初めて知ったのは、水浸しになった話はよく聞いていましたが、伊勢湾台風だと思っていたら、伊勢湾台風は9月でその時は、雨台風ではなく、風台風だったそうです。この話は勘違いしている人も多いそうです。

台風昭和34年8月

 

桝形跡広場

その名の通りここは、桝形跡地でした。今は広場になっていて市民も申請して有料で使うことが出来ます。

桝形跡広場

裁判所予定地

今回の大発見⁉ 実はこの場所に裁判所が建てられる予定だった証拠の資料を見つけました。
今東側に四柱神社が建っていますが、本当は裁判所になるはずでした。
しかしながら裁判所が、二の丸御殿跡に建てられることになり、計画が変更になりました。

当時明治天皇がご巡幸されていて、塩尻までしか来ない予定でしたが、
この場所に四柱神社が建立され明治天皇をお迎えされたそうです。

桝形跡広場写真

 

裁判所予定地2

千歳橋

時計博物館の向こうにあった開智学校のお話し

旧開智学校

江戸時代戸田家の菩提寺の全久院があった場所が、廃仏毀釈により取り壊されました。
その跡地に明治9年に旧開智学校が建てられました。地元の大工棟梁立石清重が設計した学校建築で擬洋風建築の代表です。文明開化の時代を象徴する洋風とも和風ともいえない不思議な建築は「擬洋風建築」と呼ばれています。

現在は、松本城の北に開智小学校はあり、更にその北に旧開智校舎が移築されました。1961年から国の重要文化財として指定されていますが、2019年に国宝に指定されました。
*サイト内リンク「国宝旧開智学校校舎」

旧開智学校も昭和34年8月の台風で大きな被害がありました。当時の写真です↓

スライドショーには JavaScript が必要です。

下の写真は大正時代の縄手通りの入口です。火の見櫓が見えます。

千歳橋写真
縄手通り大正時代

家屋築造制限法

明治政府の大火への取り組み。松本に公布された『家屋築造制限法』のお話し
明治政府は『富国強兵』を唱え、新しい資本主義経済体制へと進み入るには大火が続く限り財の蓄積が出来ないので、大火を抑え込む事が主本主義経済への道と考えていました。
東京での明治5年の大火後、政府は『銀座煉瓦街計画』を大隈重信・井上薫・渋沢栄一らを中心に当時の国家予算の3割を注ぎ込み実行した。と言われています。
しかし西洋直輸入の煉瓦造化のまちづくりは技術的コスト的に無理がありました。現実的ではなかった。という事だと思います。
そこで政府は日本伝統の防火建築、都市防災に着目し、舵を切ります。
『家屋築造制限法』という法令
伝統的防火建築は『土蔵造』と『塗屋』です。そして『路線防火』という考え方。これは日本にしかない都市防災と言われています。主要道路沿いの瓦葺化、江戸時代から行われていいた火除けの為の広小路化、明地化、これらを都市の中に設けることで防火帯として走らせ、そこで大火を喰い止めようという発想です。現在の都市計画でも防火地域を指定し、建物の不燃化による防火帯として継承されています。松本では本町から大名町の通り沿いが防火地域として指定され、松本のまちを東西に分ける防火帯としています。
これらの考えを踏まえて『家屋築造制限法』が定められます。
松本での『家屋築造制限法』
明治初めころの本町のまち並みの写真。屋根は板葺きであった事が分かります。(絵参照)
長野県は明治21年1月4日『極楽寺大火』1週間後の後の1月11日に長野県県令2号『家屋築造制限法』を長野、上田、小諸、飯田、上諏訪、そして松本に公布しました。
内容は、屋根勾配4.5寸以上瓦葺若しくは金属板葺。隣屋との間隔を2尺5寸以上。
隣屋に面する外壁を塗厚1寸5分以上(軒先等も同様)内容から土蔵造りを想定されていたことが分かります。この法令は『新築・改築』を対象としており、既存建物は適応外となっていましたが、大火後の松本では早速この法令が適用となってしまいました。大火後の仮家屋の使用期限は法令で1年半。当時南北深志の住民はほとんどが仮家屋での暮らしをしていました。材木、職人不足からすぐには新築に着手できない為、町総代名で明治22年『仮家屋更築延期願』を提出。県に延期を認めてもらいました。しかし延期期限後の明治23年8月16日、県は家屋築造制限法を県令44号により廃止。廃止の理由は『厳しすぎる!』という声が多く上がったからだと思われます。(土蔵造り、塗屋造りはコストが掛かる)その後明治45年『屋上制限規則』公布されました。これは屋根の不燃化のみを定めていました。現代の建築基準法では法22条に同じような規定があり、松本市は全域指定されています。公布された後大正10年に事業完了。以降松本では50戸以上の大火は起きていません。現在の松本中町の蔵造りのまちなみは江戸時代からのものではなく、この時代以降に造られたものです。
その後の本町の様子。屋根が瓦葺の土蔵のまちなみに代わっていることが写真からわかります。(写真参照)

現代のうだつ

一部の土蔵造りでは隣屋との境の屋根面に袖壁を立ち上げています。それを『うだつ』といいます。『うだつ』の目的は隣屋からの延焼防止です。この建物の1階部分は、ガラス開口部を道路面から下げることで袖壁形状を造り、隣屋からの延焼を防ぐことを狙っています。建築基準法に定められている延焼ラインの緩和規定を用いています。
現在のうだつ

信毎メディアガーデン

建築は「伊東豊雄事務所」の設計です。本町通りのシンボルになっています。
免震構造で地震に備えています。

信毎メディアガーデン

火災跡の地層。御使用者の宿

信毎メディアガーデンは江戸時代の1667(寛文7)年から1783(天明3)年まで、幕府などの松本藩へのお客さんを迎えるために使われていた御使者宿があった場所です。この場所で建設前に発掘調査が行われました。
江戸時代初期の地盤面は今より2.5mほど深いところにあり、約400年でそれだけ土が盛られたことになります。14世紀~15世紀ぐらいの生活面と江戸時代初期の地層はほぼ同じ深さにあり、敷地割りも中世的な方形地割りだったようです。17世紀前半にはそこに1mほどの盛土がなされ造成され、短冊形の地割となり近世城下町へとなっていったことがわかっています。1mの盛土の中には高級な茶器や被熱した瓦などが見つかっているため、当時松本城内で火災がありその残骸や土が運ばれたと考えられています。
それ以降の地層には土が焼けて赤くなった薄い層がありますが、それは江戸時代後期の火災の跡だと推測されています。地層には大火の記録も残っているんですね。
御使者宿がこの場所から本町4丁目に移転したのには、災害が関わっています。1776年に綿屋火事と呼ばれる松本の江戸3大火事の一つに数えられている大火がありました。その3年後、大きな水害に見舞われています。また、その3年後に付近で大火があり御使者宿も再び燃えてしまいました。繰り返される災害に、御使者宿を管理していた今井六右衛門が、火災で類焼しやすく、雨が降ると入口に水もたまりやすくお客を迎えるような場所ではないと、藩の町奉行に対して移転を強く申し出ている記録が願書として残っています。
信毎メディアガーデン裏

*工芸の五月スタッフ・建築家の方々に監修して頂きました。

第3章に続く・・

 

建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災編 第1章 松本市立博物館から松本信用金庫耐震補強の話まで
建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災編 第3章飯田町~中町はかり資料館裏まで
建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災編 第4章 ひとつ橋~正行寺入口
建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災編 最終章 旧念来寺鐘楼~ベラミ人形店

過去のタイムトラベルの記事もご覧ください。

ディープな浅間温泉探検隊!工芸の五月建築家と巡るタイムトラベル密着取材!第1章
ディープな浅間温泉探検隊!工芸の五月建築家と巡るタイムトラベル密着取材!第2章
ディープな浅間温泉探検隊!工芸の五月建築家と巡るタイムトラベル密着取材!最終章