建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災編 最終章 旧念来寺鐘楼~ベラミ人形店
10月17日・18日2日間 秋の工芸の五月「建築家と巡るみずのタイムトラベル」が開催されました。
本来ならば、毎年5月に行われていますが今年はコロナ禍で中止となり、秋に行われることになりました。
今回はコロナ渦中に合わせテーマは「防災編」、松本城下での水害・火災・地震・疫病・飢饉などの記録を辿るタイムトラベルです。
3時間のツアーの予定が4時間になり内容も深いので5回に分けて投稿します。
その5回目です。1回目の記事は、こちらです。2回目の記事は、こちらです。3回目の記事は、こちらです。4回目の記事は、こちらです。
旧念来寺
念来(ねんらい)寺は市内における数少ない天台宗寺院で、江戸時代の元和5年(1619)、唱岳長音和尚が開基となって開山されました。その後、江戸時代の中ごろには空幻明阿(くうげんみょうあ)上人が中興して寺観を改めました。水野氏の治世下に編さんされた『信府統記』(しんぷとうき)にも、このころの念来寺の様子が、「一層寺域を広め寺を新たにし、鐘楼を新築し、時の鐘をつかしめた」と記されています。
軽快な作りの鐘楼
鐘楼は宝永2年(1705)の建立です。入母屋(いりもや)造り、袴腰(はかまこし)付きの建物で、楼上の柱間は二間に三間、軒は板庇(ひさし)で軒垂木は使わず、軒裏の全面には雲形の彫刻がされています。用材はすべて欅(けやき)で、内部の格天井(ごうてんじょう)の中央、鐘の釣座には方位盤と鐘楼銘があります。屋根は銅板葺きで勾配はゆるく軽快な反りをつけ軒は深いです。破風(はふ)飾りも大瓶束(たいへいづか)を含め念入りに造られています。彫刻部の蟇股(かえるまた)には地方色が濃く、かぶら懸魚(けぎょ)の出来もよいものです。建物の高さは12.67m、袴腰の裾張りは7.8m、軒下7.67m、楼床の高さは地上4.4mです。*「まつもとの宝」より引用いたしました。
鐘楼へ
今回の目玉は、今年の4月に長い年月をかけて新しく備え付けられた「梵鐘」を見ることでした。
松本は明治時代に激しい廃仏毀釈に遭い、多くのお寺が廃寺になりました。ここ念来寺も御多分に漏れずに廃寺になりましたが、以降「妙勝寺」となり現在に至ります。
松本城下の「時の鐘」として、町宗に親しまれていた為に、廃寺になった際にも鐘楼だけは残りましたが、戦争中の鉄や銅類などを軍へ供出され当時のものは残っていませんでした。
いざ!鐘楼へ 入口から中に入ると狭い木の階段を昇ります。
鐘楼に釣られた銅鐘は、松本本町の名工、鋳物師(いもじ)田中伝左ヱ門吉繁の作の大型の立派な鐘でした。大正10年(1920)に至るまで江戸時代からの「時の鐘」がつかれていたといいます。太平洋戦争の折り、この銅鐘と勾欄(こうらん)につけられていた青銅の擬宝珠(ぎぼし)はすべて供出されてしまい、現在は残っていません。
松本市には長称寺・極楽寺・正麟寺・浄林寺・牛伏寺・筑摩神社(旧安養寺)等多くの鐘楼がありますが、それらの中で規模も大きく建築も優れています。
昭和44年7月4日、松本市重要文化財に指定された後、平成24年3月22日に長野県宝に指定されました。所有者:妙勝寺 *「まつもとの宝」より引用いたしました。
新しい梵鐘
梵鐘を作ったのは、高岡市にある「老子製作所」です。
梵鐘を作る専門の会社だそうです。偶然テレビで旧念来寺の梵鐘を作っている番組を見ていて新しい梵鐘が出来ることを知りました。
釣られてから下からは見ていましたが、本物をまじかで見ることが出来て感動!
長い間鐘のない鐘楼にようやくあるべき姿に戻りとても嬉しいです。
鐘楼の上に到着しました。真新しい梵鐘に見入ります。
梵鐘の中は真ん丸ではなく、僅かに歪ませるのが匠の技。真円だと鐘の内部で音を打ち消し合い「ゴ―――ン」と響く日本の鐘の風情ある響きが鳴らないそうです。
梵鐘復元事業
令和2年3月12日、復元した梵鐘の取り付けが行われました。
事業詳細は、松本市HPをご覧ください。
昭和34年(1958年)8月 女鳥羽川沿いにあるこの場所も水害に遭いました。
鐘楼の屋根の裏には、彫りものがあり、渦巻き模様から波打つような水模様で火災などおきないためのおまじない的な意味もあります。
渦巻き模様の中心に板垂木の節を活かして、細工してあります。
角には、耐震のための工夫もあるそうです。
旧念来寺のかつての位置と念来寺橋の位置
拡大して説明します。現在よりも少し上流にありました。水害で橋が流されたりした為、新しい橋は既存の道路にまっすぐつながる位置に架けられました。
護岸の色が濃い場所が旧念来寺橋のあったところです。
妙勝寺のブロック塀の壁も新旧の違いが判ります。
古地図から見る
現在の念来寺橋
女鳥羽川に架かる橋の中でも年代を感じる古い橋です。
伊織霊水
伊織霊水は、2か所から水が出ていて自噴の湧水で、市民の井戸水を汲みに来る人も多い人気の井戸です。
鈴木伊織墓所
加助騒動
1684年(貞享元)凶作が続き農民の生活は苦しく、農民の悲願を受けた庄屋の加助が年貢の軽減を長尾組の組手代に申し出ますが受け入れられず、松本藩に陳情したことによって、庄屋の身分を取り上げられました。
その2年後、凶作と疫病が同時に民を襲い、餓死者も出たために、加助は神社の拝殿で12人の密議のうえ年貢軽減の「5カ条の訴状」を松本城下郡奉行に提出します。松本平の農民1万人が、竹槍をもって城に押し寄せる騒ぎになりました。願いはいったん聞き入れられたものの、1カ月後にはなかったものとされ、この騒動を指揮した罪で加助とその同志、一族ら28人は幼い娘まで含めて勢高と出川の刑場ではりつけ、打ち首の刑に処されました。
「加助騒動」に関係する当サイトのスポット情報もご覧ください。加助惜別の岩
1686(貞享3)年に起こった農民一揆「加助騒動」農民の救済に尽くした松本藩士鈴木伊織の墓所がここにあります。
農民たちに慕われ、亡くなったときには「伊織死亡候につき同家へ悔みに参る事不罷成候」という高札が出されるほどだったと言います。
源智の井戸
源智の井戸は、松本市街地で1番有名な井戸です。
その由縁は城主小笠原家の家臣・河辺与三郎佐衛門源智(かわべよざえもんげんち)の持ち井戸だった。天保十四年に著された「善光寺道名所図会」には、「当国第一の名水」で、町の酒造業者はことごとくこの水を使ったと書かれていて、歴代の領主は制札を出してこの清水を保護したと伝えられるそうです。
ベラミ人形店
長いツアーの最終地点は、大橋通り沿いにある「ベラミ人形店」
松本では数少ない伝統的な人形を扱う専門店です。「松本押絵」「七夕人形」など江戸時代から松本地方に伝わる人形を伝承、制作しています。
お話し頂いたのは、店主ご夫妻
松本押絵の歴史
松本押絵はほとんど全てお節句のお人形です。武士の奥さまがたしなみとして作っていたもので、幕末に松本藩が財政困難になると売られ始めたようです。明治の始めには松本押絵は「ひいな」として松本の特産品になっていました。
七夕人形のお話し 松本独特の七夕人形の数々を教えて頂きました。
左の木型は七夕の日に雨が降った時に天の川を渡るための「カータリ、カワタリとかアシナガ」などと呼ばれています。織姫か彦星を背負い天の川を渡ると言われています。どちらを背負うかについては文献がありませんのではっきりわかりません。 カータリ達も木製の着物を着た織姫彦星も、両方「着物かけ型」に分類されます。
着物かけ型・・着るものに不自由しないように、子供が生まれたら七夕人形として飾ります。着物の虫干も兼ねているとも言われています。
当日見せてもらった人形は明治30年のものでした。
3.11の年の松本地震の後に、蔵を開けたら「押絵」が出てきてどうしたらいいかという問い合わせが沢山あった。
地震は文化も途切れてしまいます。
4時間に及ぶ長いタイムトラベルも終わりました。あがたの森通りを渡り「栞日」のガレージで解散の挨拶。
皆さん大変お疲れ様でした。
*工芸の五月スタッフ・建築家の方々、ベラミ人形店さんに監修して頂きました。
建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災編 第1章 松本市立博物館から松本信用金庫耐震補強の話まで
建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災遍 第2章 旧山崎歯科~信毎メディアガーデン
建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災編 第3章飯田町~中町はかり資料館裏まで
建築家と巡るみずのタイムトラベル 防災編 第4章 ひとつ橋~正行寺入口
過去のタイムトラベルの記事もご覧ください。