『嶋之内の成立と発展~平瀬城&犬甘城 街道と水~』まつもと文化遺産令和2年3月認定

2020.4.25
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『嶋之内の成立と発展~平瀬城&犬甘城 街道と水~』まつもと文化遺産令和2年3月認定

嶋之内の成立と発展~平瀬城&犬甘城 街道と水~

松本市が関連文化遺産を認定する委員会に参加して令和2年3月認定前の島内地区へ視察に行きました。

 島内地区は昔「嶋之内」と呼ばれ、松本市の北西部に位置し、奈良井川に沿った城山丘陵地の麓下と、奈良井川と梓川に囲まれた平地部からなっています。12世紀には法住寺の存在記録があり、すでに平瀬には集落が形成され、また、15世紀後半には犬飼、平瀬、小宮の三郷がみえ、その中心は犬飼郷とみられることから、この三郷は国栄衛下で成立したものと思われます。

戦国時代になると平瀬氏と犬甘(飼)氏は、それぞれ奈良井川の対岸の城山丘陵に山城を築いきます。平瀬城は奈良井川と梓川の合流点の東側の尾根先に山城を築き水陸交通の要衛として掌握してきました。犬甘城はいわゆる城山丘陵南端部にあり、小笠原氏の林城の北西部方面を守る支城の役目を果たしていました。

島内の地は、糸魚川方面への物資の出入り口として重要な位置にあり、主要な街道が幾筋も通っています。両河岸に囲まれた地のため、川の氾濫に幾度となく悩まされ、時代を経て、平坦な地は、松本平随一の水田地帯となりました。

この地に営みを廻らした先人たちにより連綿と受け継がれてきた歴史文化は、「地域の宝」であり、「地域の資産」です。これからも大切に守り、次世代に引き継いでいきます。「島内地区歴史文化財調査委員会・平瀬古城会 資料より」

「熊倉の渡し跡」

松本藩の重要な交通の要衝の地であった。

熊倉中村から下田へ通じる犀川の渡し船が往復し、昭和30年ころまで見ることが出来ました。
熊倉の春日神社北側に、使用されていた渡し船が残されています。

地元島内地区の保存会の方から説明を受けました。昭和33年頃まで自転車で渡しに乗り犀川を渡り安曇農業高校へ通われた方がいたそうです。

川向うの東に見える山に平瀬城跡があります。真ん中の山で上に1本木が植えてある場所が「平瀬城跡」だそうです。
平瀬城は、岡田の塩倉に塩を運ぶ塩の道で物資の監視をする役目だったそうです。
下から20分くらいで頂上まで登れるそうです。現在は「平瀬城を守る会」の方々が入口の整備などしてくれているそうです。

松本市特別史跡平瀬城跡

安曇野を望む島内の要衝
平瀬城跡は、奈良井川と梓川とが合流する付近の、安曇野に面する尾根上に造られた山城の跡です。 島内下田地区の犀乗沢をはさんで、北側の尾根に本城、南側の尾根に南城が築かれ、これら一体で平瀬城とされています。松本地域の他の山城と比較すると、本城の主郭部分がずば抜けて広いこと、また、尾根続きに築かれている連続竪堀(たてぼり)が大規模かつ複雑であることが特徴として挙げられます。

敵二百四人討ち取りなされ候
平瀬城は多くの文献史料に名を残しているため、研究者の間で著名であり、他の山城に比べて広く研究されてきた経過があります。江戸時代に松本藩主水野氏が編纂した『信府統記』には、犬甘(いぬかい、犬養・犬飼とも書く)氏の一族である平瀬氏の居城であろうと書かれています。また、武田氏の史料である『高白斎記』には、天文20年(1551)10月に、武田氏が平瀬城を攻め、204人を討ち取り平瀬氏が滅亡したという記載があります。ただし、平瀬氏滅亡の場所は、平瀬氏の居館である川合鶴宮八幡神社地とする説もあります。

(松本市HPより)

加助惜別の岩

貞享3年(1686年)多田加助らを中心とする安曇・筑摩の農民一揆が起き、その首謀者として囚われの身となった加助が、刑場への途中この岩で夫婦が別れを惜しんだと言われています。

川合鶴宮八幡社

微高地に所在し、周辺には平安時代末にその名を留める平瀬法住寺跡があり、古代集落を裏書きする遺跡が取り巻く地帯。
中世以降、平瀬氏の本拠地となった館跡も残されています。祭神は他の宮と異なり、誉田別尊・気長足姫命・玉衣姫命の三座。氏子は平瀬川西、上平瀬、平瀬川東、下田町会。


以下松本市HPまつもと文化遺産ページより

認定年月日令和2年(2020)3月27日 保存活用団体島内地区歴史文化財調査委員会

構成する文化財(関連文化財群)

平瀬城&犬甘城

平瀬城跡、犬甘城跡、川手口口番所跡、熊倉の渡し、陣畑、加助惜別の岩、法住寺跡、平瀬氏館跡、犬飼氏館跡、開善寺、川合鶴宮八幡社、武宮神社、大宮神社、古宮神社、鳥居火

街道と水

塩の道、泉小太郎伝説、川手街道、山田道、養老坂道、旧糸魚川街道、長尾道、氷室道、千国道、仁科道、野麦支道、梓川、奈良井川、拾ヶ堰、勘左衛門堰、ワサビ田、湧水、造り酒屋、染色業

ストーリー

島内地区は松本市の北西部に位置し、東には城山丘陵、その麓下の平坦地は南から奈良井川、西から梓川が流れ、それが合流して犀川となる場所にあります。特に北アルプスを源とする梓川は古くから流路を幾たびも変え、そこに成立した微高地は島状となっていて人々の生活の場となっていました。そのため古くは嶋之内と呼ばれ、それが現在の島内の呼称になりました。
このように両河川が合流する場所であったため水害に苦しむこともありましたが、人々は川の普請に努め水路を引き、現在では恵まれた水田地帯となっています。また島内は筑摩郡と安曇郡の境界に位置することから、両郡を結ぶ交通の要衝として重要な場所でもあり、大町から糸魚川へ、山清路から善光寺へと道が延び、川があったため橋や渡し船といった交通手段も使われていました。
犬甘氏や平瀬氏は、東部の丘陵に犬甘城や平瀬城といった山城を構えて、陸水の交通の要衝を押え、嶋之内の地に勢力を伸ばしました。本地域には犬甘氏や平瀬氏に関係する文化財や、安曇や水内方面を結ぶ街道や水運に関わる文化財が残されています。

活動

平瀬城跡の草刈り等登城路の整備・保全を行います。「嶋之内の成立と発展」総合パンフレットを作成し、テーマ別講演・講座、史跡巡りウォーク、現地見学会なども実施します。また、コミュニティスクールの活動に位置付け、小中学校と共に地域学習として取り組みます。

*詳細は、「松本市HP まつもと文化遺産ページ」をご覧ください。


城山公園犬甘城跡

城山公園に行った時に撮影した写真です。

新まつもと物語こちらの記事もご覧ください。

犬甘城説明