十王堂
松本の城下町の東西南北の入口にあたるところには十王堂(じゅうおうどう)が置かれていました。東の出入り口にあたる餌差町(えさしまち)には地蔵菩薩をまつった「放光庵(ほうこうあん)」の右側に「閻魔堂」があって十王をまつっています。城下の入り口を固める4つの十王堂のなかで、十王の像が残っているのはここだけです。なかでも閻魔大王の像は大きくて立派な像です。(国宝松本城公式サイトより)
餌差町十王堂の諸仏(松本市文化財課HPより)
- 指定等区分 松本市重要文化財
- 指定年月日 平成21年(2009年)12月22日
- 種別 歴史資料
- 所在地 松本市大手5-5-31 放光庵
- 所有者 餌差町十王堂の諸仏保存会
- 時代区分 江戸時代
睨みを利かし城下を護る
十王堂は、江戸時代には各村々の入口や中心地に建立して、疫病や災害や悪戯者などが村に入らないように保護をしてもらうことを願ったといいます。松本城下では、藩主水野忠職が慶安5年(1652)8月に公布した法度に次の規定があります。
◎在より松本へ罷り出候刻、ばくろう町木戸きわ、伊勢町の木戸・安原の一里山・清水村の川端より馬乗り申しまじく候 、たとえ道中にて旅人に会い申し候共、奉公人と見申し候得は、一丁前より下馬仕り、不礼致し申し間敷く候。
この法度の規定は度々公布されています。ここから分かることは、十王堂は城下と在(城下より外の地域)との境界に置かれ、城下は特別な地域である事を示しているということです。
城下町は計画的につくられた政治的軍事的都市です。そのため一般庶民から見ればさまざまな制限があり、聖域でした。十王堂はその聖域を守る働きをもち、城下町の構成からみて非常に重要な役目を果たしていました。松本城下町は明治のはじめ、廃仏毀釈によって寺院の多くは破壊され、十王堂も廃墟と化しました。その中にあって、今日、地域の人々によって十王が祀られています。
大きな閻魔像は像高110cm、その他の十王像は像高34~39cm、奪衣婆像は像高29cm、懸衣翁像は像高41cmです。
閻魔堂
中を覗き込むと閻魔さんや他の地獄の番人象も置かれています。
十王というのは、人が生きていたときに良いことをしたか悪いことをしたかを裁判する役目をもっていると信じられていました。閻魔大王はその中心で、いわば裁判長です。死んだ人が閻魔大王の前でいろいろ聞かれます。そして、その内容によって極楽にいけるか地獄に落ちるかが決まりました。ですから、人々から大変恐れられ敬われました。
昔の子どもたちは、大人たちから「嘘をつくと、閻魔大王に舌を抜かれるぞ」と言われました。閻魔大王に舌を抜かれては大変だ、嘘を言わないようにしようと心に誓ったものです。(国宝松本城公式サイトより)
旧町名「餌差町」
餌差町は城下町の東の出入り口に当り、町の東側には木戸と十王堂が置かれ、町番が木戸を守っていた。百姓や町人はこの木戸からの乗馬は認められなかった。町名はここに藩主の鷹の餌(小鳥)を差し出す役目の「餌差」を置いたことに由来するという。
山家小路(やまべこうじ)
東町の成り立ちは天正十五年(一五八七)と 伝えられ 三丁目の区分は大正三年四月である。山家小路の名称は慶長十八年(一六一三)と記録にある。信府統記に昔は紺屋町と言い、中比鍛冶町といい、今は山邊小路というとある。山辺への出口の町である。
山家小路~鍛冶町~餌差町