昭和25年丸の内中学校体育館の建設のため工事をしたところ、地下から18体の遺骨が出てきました。
また井出川の刑場跡からも出た遺骨が出て来ました。
貞享3年(1686年)に松本藩領内で大規模な百姓一揆が起きた。首謀者の名を取って「加助騒動」と呼ばれています。
加助騒動
1684年(貞享元)凶作が続き農民の生活は苦しく、農民の悲願を受けた庄屋の加助が年貢の軽減を長尾組の組手代に申し出ますが受け入れられず、松本藩に陳情したことによって、庄屋の身分を取り上げられました。
その2年後、凶作と疫病が同時に民を襲い、餓死者も出たために、加助は神社の拝殿で12人の密議のうえ年貢軽減の「5カ条の訴状」を松本城下郡奉行に提出します。松本平の農民1万人が、竹槍をもって城に押し寄せる騒ぎになりました。願いはいったん聞き入れられたものの、1カ月後にはなかったものとされ、この騒動を指揮した罪で加助とその同志、一族ら28人は幼い娘まで含めて勢高と出川の刑場ではりつけ、打ち首の刑に処されました。
以下「義民塚を守る会」資料より
昭和25年(1950)、城山の刑場跡から出土した人骨を埋葬した義民塚がつくられ、現在まで慰霊祭が行われています。
貞享騒動は、明治時代に自由民権運動が盛んになると、「権力への抵抗」の先駆けとして貞享義民が評価され、顕彰が行われるようになり、現在も人々の記憶に残り続けています。
平成28年(2016)、公益法人制度の見直しによって、義民塚を築いた際の発足した貞享義民顕彰会が解散するにあたり、株式会社サンエネックにより大規模な義民塚聖域整備事業を実施しました。整備にあたった関係者によって「義民塚を守る会」を設立し、義民塚及びその周辺の環境維持活動を実施しています。また義民塚の清掃を丸の内中学PTAと連携して行っています。
埋葬された方々のお名前