浄土真宗大谷派、本願寺末寺、木曽山義仲院長称寺。本尊は阿弥陀如来です。上横田町。
寛永2年(1625)松平丹波守康長が、寺を和泉町に移し帰依しました。明暦2年(1656)に、水野出羽守忠職(水野家第二代城主)が寺院を建築し万治3年(1660)できあがりました。
戸田光和(みつまさ)(後の戸田氏第四代城主)の生母の墓があります。
墓石表に「壽專院殿快顔智慶大姉」「天明八年(1788)庚申十月二十六日」と刻まれています。戸田光雄准室光和生母久田氏です。*国宝松本城HPより
銅鐘
銅鐘(長称寺)
- 指定等区分 国重要美術品
- 指定年月日 昭和19年(1944)7月16日
- 種別 工芸品
- 所在地 松本市女鳥羽2-4-42
- 所有者 長稱寺
- 時代区分 江戸時代
鋳物師(いもじ)田中伝右衛門作の銅鐘
長稱寺は浄土真宗の本願寺の末寺で、木曽山義仲院(ぎちゅういん)長稱寺といいます。開山は義延房念信と伝えられています。念信は俗名を木曽義信といい、木曽義仲の子であったといわれます。念信は親鸞の法弟で、鎌倉時代の建暦2年(1212)、親鸞帰洛の際に庵を挙げて長稱念仏寺と称したとされます。長稱寺は室町時代の明徳2年(1493)、七世善念のとき木曽に移り、さらに安曇郡横澤村(現在の松本市梓川地区)に移ったといわれます。寛永2年(1625)には城主戸田康長により松本城下和泉町に移され、明暦2年(1656)には城主水野忠職(ただもと)により現在地である上横田町に移され、万治3年(1660)にはその寺堂が完成しました。
この銅鐘は、元禄12年(1699)鋳造、宝暦3年(1753)に改鋳されたものです。銘には、
宝暦三歳 孟冬 下旬第五日
信濃國左方惣官 鋳物師田中伝右衛門藤原吉隆とあり、宝暦3年10月25日(「孟冬」は陰暦10月のこと)に、信濃国左方惣官(さほうそうかん)鋳物師田中伝右衛門吉隆が作り上げたものであることがわかります。
寸法は、口径75.8cm、高さ131.8cmを測ります。戦時中の金属供出の際、寺院からは銅鐘をはじめ金属製品が供出されましたが、長稱寺の銅鐘はそれを免れました。
江戸時代の松本城下の鋳物師として田中家と浜家が有名ですが、両家とも先祖は河内国(現在の大阪府)丹南郡の鋳物師で、代々勅許御鋳物師信濃国左方惣官を称していました。田中家は、元和8年(1622)から松本城下飯田町鍋屋小路で鋳物業を営んでおり、元禄年間(1688~1704)の吉重、元文・宝暦年間(1736~1764)の吉隆の頃に最も繁栄しました。田中家は長稱寺のほか、極楽寺・念来寺・宝永寺の銅鐘も鋳造しています。