三の丸を囲んでいた土塁
城の一番外側の総堀を掘った土を内側に盛り上げて高い土の土手を造りました。それを土塁(どるい)といいます。江戸時代には三の丸のまわりを土塁がぐるりと周っていました。
明治時代になってこの土塁は崩されて、堀を埋めるのに使われたり平にならされたりして、ほとんど無くなってしまいました。
現在、土塁の跡が残っているところは、西堀と北馬場と大柳町(おおやなぎまち)(総堀の土塁)と片端町(かたはまち)と東町(捨堀の土塁)だけで、それも一部分です。
この場所は、西にあった総堀の土塁がたまたま残されていて、発掘調査の後整備をしたものです。土塁の底の部分は17メートル、高さは3.5メートル、その上に2.5メートルくらいの塀が立てられていました。
この土塁の西側は堀、東側は武士の住宅です。発掘した時の様子や、土塁の説明がパネルになっています。大手門の外、西側の通りを六九(ろっく)といいます。六九は1633年に松本の殿様になった松平直政が54匹の馬を飼うための馬屋を造ったことから付いた名(6×9=54)だと言われています。その後、戸田氏の時代になると、ここには藩の役所がつくられ、町や村の政治を行う場所になりました。町や村を治める「郡所」、幕府から預かった領地を治める「預所」、藩の会計を引き受ける「表勘定所」や「蔵」があって、そこに勤める武士たちが通ってきました。(出典:国宝松本城公式サイトより)
位置を古地図を見ると★のついた場所になります。
国宝松本城公式サイトにある古地図をもらいました。
現代に残された土塁
西総掘土塁公園は、付近の市民により守られてきた土塁を平成21年度に史跡整備公園として整備されました。
そもそも土塁って何だろう?
土塁は、松本城の内側(郭内)と外側(郭外)を分ける役割を持っていました。
戦国時代や江戸時代の人たちは、堀と土塁が周囲を取り囲むことで、守りを固めて的の収入を防ぎ、また見た目からも打ちと外を区別していたのです。