重要文化財 旧制松本高等学校本館・講堂
明治以降、国は当時の高校を第一校(東京)から八校(名古屋)までしか設立を認めなかったそうです。大正時代に入り全国に四校増設する事になり松本にも9番目の高校が誕生しました。しかし番号では呼ばず建設地の地名とすることになったそうです。当時の松本は由緒深いあがたの森に2万坪の敷地を用意しました。設計は文部省の建築課で同時に新潟、山口、松山もほぼ同様式の建築だったそうです。その時代の高等学校建築は大正デモクラシー時代の影響が校舎建築の特徴として表現されています。校舎の配置は道に近く入口は建物の角入りが特徴です。敷地の有効利用をはかり建築は実質を重視するというやり方でした。そのため建築もドイツ式の簡略スタイルを基にした木造2階建て瓦葺、外壁は下見板張りの上に薄水色のペンキ塗りという簡素な仕上です。外壁の板を縦横さまざまな方向に走らせ柱形を付けたステックスタイル様式と言われています。講堂は入口がドーム型の屋根で換気用の小塔や階段手摺の彫り細工など意匠的な配慮が見られます。全国的に旧制高校の遺構が少なくなっている中で、当時の状況が最も良好に保存されている唯一のものと言われています。この建物も閉鎖後に保存運動がおき文化財として保存と活用を決め平成19年国の重要文化財に指定されました。
国宝 旧開智学校校舎
文明開化の学校建築として歴史の教科書に掲載されるほど日本では有名な建物、建てたのは地元の棟梁立石清重。明治政府は明治17年(1884年)にアメリカのニューオーリンズで開かれた万国工業博覧会に自国の文明開化の証として開智学校校舎の写真を出品しているそうです。擬洋風建築とは地方の大工棟梁が見よう見真似で西欧建築を学習し洋風建築として建てたものです。その多くは小規模な学校や役場などの木造建築で厳しい予算のなか不足分は地元の人々の寄付を募って建設されました。注目すべきは正面の車寄せ、この一点に擬洋風が凝縮されています。八角の太鼓楼と寺っぽいアーチの窓、青竜の上に雲がわきその上に二人のエンジェルが「開智学校」の旗を掲げています。文明開化時代の日本一の小学校「擬洋風建築」を見学して見てください。*追記「令和元年国宝に指定されました。」
重要文化財 旧松本区裁判所庁舎
明治時代の裁判所の建物は、大都市と地方都市で2つの系統があります。大都市は明治初年から10年代まで疑洋風で造られ明治30年代以降、司法省と大審院はドイツ人の建築家に依頼するなど正当な西洋建築で造られます。それに対して地方都市は和風の意匠で造られます。現存するものは少なく司法省の設計による旧長野地方裁判所松本支部庁舎は、その中でも地方都市の和風裁判所の完成形とも言われています。昭和52年に別庁舎が新築され、機能が移転し解体される事になりました。地元の人たちの保存運動によって、松本城二の丸からこの地に、昭和57年(1982年)移築復元されました。シンメトリーに配置された平面は鳳凰が羽を広げた形といわれ、中央には二枚屋根の車寄せを配置し厳格な佇まいとなっています。
国の登録有形文化財 松商学園高等学校本校舎
左右対称のファサードで屋根は瓦葺です。中央に張出した玄関に石造風のポーチを設け2階の屋根に入母屋を乗せて両翼の屋根には千鳥破風を配するなど和と洋を折衷した意匠で造られています。小屋裏換気用の小屋根もリズミカルに乗っています。外壁は下見板張でコーナーに柱形か付いています。昭和の近代和風建築の代表です。松商学園高校は、片倉製糸紡績の今井五介が興した松本商業学校を前進としています。そのため、本館の建設には、片倉製糸紡績の専属技師を中心とするメンバーが設計に参加しました。建設当時は東西81m南北44mのロの字型の校舎で1周250mという大型の木造校舎だったそうです。平成23年に、本館のほか講堂・柔剣道場が国の登録有形文化財になりました。